第16話

みんながどこか「普通の夏」を生きているように見える中で、陽翔と夏葵の間には、目には見えない亀裂が大きく開いていった。

最初は夏休みだから、顔合わせてないから、と言い聞かせていた。

でも、気が付けば連絡することにも躊躇うようになり、話せなくなってしまった。

そんな関係に俺たちはなってしまったんだ。


でも、それでもどこかで信じていた。

きっと夏葵の方から近づいてくると。

夏葵はああ見えて寂しがり屋なところがあるから、きっと俺を必要としてくれる。

日常に俺が居ないと寂しいと思ってくれるはず。


しかし夏休み中、いくらまっても夏葵とのトーク画面が変わることはなく、流されるように適当なクラスメイトたちと遊ぶ約束ばかり増えていった。


掴もうとしても、手を伸ばすたびにするりとすり抜けていく。


陽炎。


久しぶりに夏葵がまだ半袖を着れなくて、夏葵の名字も黒瀬のままだった頃の夢を見た。

陽炎を追いかけて、あの日動けなかった家に、また行く夢。

今の俺だったらあの日、助けられたのだろうか。

俺はあの日から変わらず、動けないままなのかもしれない。


俺が居なくても、陽翔の世界は回るし、陽翔は俺といるより、もっと明るくて「普通の」世界にいるべきだ。

俺みたいな異分子が陽翔の世界を壊してはいけない。

それが、夏葵の中の答えだったのだ。


一方で、泉の家には沈黙と緊張が張り詰めていた。


受験を目前に控えた兄・真澄は、いよいよ追い込みの時期に入り、部屋に籠る時間が増えた。

けれど、その静寂の中に時折混じる不穏な音――何かが「ゴン」とぶつかるような鈍い音が、泉の心を揺らす。


最初は気のせいかと思った。けれど、何度も聞こえてくる。

廊下にのそのそと出てきた真澄を見れば、額から血を流し赤く腫れ上がらせていた。

ずっと聞こえていた鈍い音は、真澄が自分の頭を意図的に机に打ちつけていた音だったのだ。


「……うっ……うぅ……」


夜更け、隣の部屋から聞こえる啜り泣く声に、机に己の額を打ち付ける音に、泉は耳を塞ぎたくなった。

でも、逃げちゃだめだと思い塞がなかった。

兄が闘っているのに俺だけが逃げられない。


自分が幼い頃、憧れのように思っていた兄が、

強くて、優しくて、いつも守ってくれていた兄が――いま、壊れていく音を立てていた。


ある時、ちらりと袖口から見えた真澄の腕には、皮膚が掻きむしられて赤くなった跡が何本もあった。

泉は言葉を失った。

ねぇ、見えないところにあと幾つ傷があるの、お兄ちゃん。

お兄ちゃん、俺はどうしたらいいのか分からないよ。

正解を教えてよ、お兄ちゃん。



その頃、雅貴は塾の帰りにふと寄り道をした。

特に理由があったわけじゃない。ただ、真っ直ぐ家に帰りたくなかった。

なんとなく足を向けた公園で、思いがけず夏葵の姿を見つけた。


ベンチに座って、缶ジュースを持て余しているその姿に、雅貴は目を奪われた。

近づこうか、やめようか――色んな感情が交錯する中で、逃げるように背を向けようとしたその瞬間。


「お前、顔色やばいぞ」


夏葵が立ち上がり駆け寄ってきて、そっと雅貴の手首を掴んだ。

夏葵はふらふらとしていて、たぶん、俺よりもよっぽど酷い顔をしていたのに。


ずっと座っていたからか、夏バテか、それとも……。


突然のことに固まり、色々考えていた雅貴を見て、夏葵は「あ、ごめんな」と言った。


「俺といたら変なウワサ立てられちゃうか……」


ぽつりとそう呟いて、掴んでいた手を離そうとした。

「無理すんなよ」と、困ったように笑って、振り返らずに去ろうとする。


でも、今度は雅貴が咄嗟にその腕を掴んだ。


しかし、掴んだ瞬間、全身が強張った。

もし、この袖の下にアザがあったら――

もし、また痛がったら。


そんな恐怖に怯える雅貴の顔を、夏葵は見て、ふっと笑った。


「んな顔しなくても俺、なんもないって」


そう言って、袖をまくって見せる。

アザはなかった。けれど、その「気遣わせてしまった」ことに、夏葵は少し寂しそうだった。


「なに、雅貴くんは俺と変なウワサ立てられてもいーの?」


問いかけに、雅貴は答えなかった。

ただ、掴んだ手を離さなかった。

そしてようやく一言零せた。


「……ごめん」


突然の謝罪に夏葵は目を丸くして驚いて、すぐに笑った。


「なんだよ、急に」


そして、雅貴の腕をぽんぽんと優しく叩いた。

まるで泣いている赤子をあやすような、優しい手つきで。



それから2人は、塾帰りに公園で少しだけ話すようになった。


他愛ない話をする日もあれば、何も話さずに缶ジュースを飲むだけの日もあった。

オマエ、GPS付けられてなかったっけ?俺といてだいじょーぶなの?と聞く夏葵だったが、ここの公園は塾の通り道だし誰といるかまでは分からないだろうから大丈夫。と返せば少しほっとしたようだった。


夏休みの間、公園はふたりの秘密基地のような場所になった。

そう、ふたりだけの。

あの頃、4人で夏葵の家を秘密基地のようだと思っていた頃とはちがう。


俄然、夏葵に興味が湧いた雅貴は、昼間なにしてるの?だとか部活動はやってないんだっけ?だとか聞いてみたけど、と聞かれた夏葵は、寝転んで空を見ながら「べつにぃ……」とだけいつも答えた。


ずっと誰にも会っていない、母親もいない、部活もしてない、塾もない――


「陽翔とか泉は最近どうしてんの?」


少し気になって尋ねると、夏葵は拗ねたように「知らねー」とだけ答えた。

夏休み期間、全くと言っていいほど会っていないらしい。

そして、夏葵はそれに寂しがっているみたいだった。


その子どもっぽさに思わず笑ってしまえば、横から手が伸びてきて小突かれる。


その瞬間、雅貴は足をバタバタさせたい気持ちになった。


だって、いま、夏葵の“トクベツ”は、自分だけなのかもしれないから。


それは、ずっと管理され、見えない理想の息子を愛している母親、そしてそれに何も口出しをしない父親に育てられてきた雅貴にとって、買ってもらったゲーム機よりも、上がった成績よりも何倍も幸せに思えることだった。


どこか遠い場所で埋まらなかった承認欲求を、そっと満たしてくれるのを感じて、胸が高鳴った。


だが、そんな日々を壊すのはいつだってあの人だ。


ある日、夏葵と話していたら、大量のメッセージと電話が来た。

送り主は見なくても分かる。

母親しかいない。


「遅い!今どこにいるの?最近よく公園に長い時間いるとは思ってたけど……まさかまた“あの子”のところに行ってるんじゃないでしょうね?早く帰ってらっしゃい!」


怒鳴るような母の声は、大きくて、夏葵の耳にも届いていた。


電話はぶつりと切られたが、怖くて怖くて堪らなかった。

送られてきた大量のメッセージも見たくない。

雅貴が足を縺れさせながら急いで帰ろうとすると、夏葵が言った。


「……オマエ、お母さんに愛されてんな」


その言葉には、羨望と寂しさが滲んでいた。

母親が家にいることの方が珍しく、何時まで外にいたって誰と居たって心配されたことなんてなかったから、そんなふうに怒るほど心配してくれていることに羨ましくなってしまった末に出た言葉だったが、雅貴にはそうは受け取れず、皮肉に聞こえた。

母親に怒鳴られて気が荒だっていたのもあると思う。

そしてひとこと、言い返してしまった。


「愛されてる?……こんなの、愛なわけないだろ」


そう吐き捨てて、背を向けた。


その帰り道、雅貴はずっと考えていた。


思わず出た言葉だったが、じゃあ、母親の束縛が“愛”でないとしたら、これは一体何なのか――と。


そして、結局気まずくなってしまいあの公園に寄ることは無くなってしまった。

もう母親の機嫌を損ねて怒られることもしたくなかった。

だから自然と夏葵との間に距離が出来ていった。

元に戻っただけと言っていいかもしれない。


けれどどこかに棘が刺さったように痛んだ。


ただ元に戻った訳では無いことを分かっているからだ。


「覆水盆に返らず、というのは故事成語のひとつであって……」


塾の先生が教えてくれる声がよく響く教室に反射して耳に痛かった。

夏葵、教えてよ。

俺は愛されてた?

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