第13話
夏祭りのあの日から、少しずつまた元通りのような時間が戻ってきた。暇な日には、自然と夏葵の家に集まって課題をするのが習慣になっていた。古くて狭いアパートの一室に、ノートとプリントが散らばる。笑い声も、ため息も、そこにはあった。
けれど、泉が塾の課題に取り組んでいる様子を見たとき、夏葵は言葉を失った。「……これ、ほんとに解けんの?」
泉は何も言わずに、さらりと式を書き進める。あまりに違う。自分がしている勉強とは、まるで違う世界だった。
雅貴もまた、家で母親に言われていた。「泉くんはこの間の試験もよかったらしいじゃない」
成績が伸び悩むたびに泉と比較される。そのたびに、胸の内側がきつくなる。そして母は夏葵の話も持ち出してくる。「あの子と一緒にいると、変な噂が立たないか心配なのよ」
そんな風に、少しずつひび割れていくのが分かった。
陽翔はというと、サッカーの試合で結果を残し、1年ながら良いポジションを任されるようになっていた。実直で真っ直ぐな姿勢に信頼が集まり、同級生からも先輩からも頼られるようになっていた。
けれど、冬が近づくにつれて、クラスに暗い空気が漂い始めた。
「このあたりで子供が襲われる事件があったらしいから、帰る際はよく気をつけるように。部活やってる奴らもなるべく明るいうちに帰るようにしろよー」
帰りのホームルーム、担任の先生が全体連絡としてそんなことを伝えてきた。
「部活で夜遅くなるのは俺らみたいな野球部とサッカー部だけですよー!先生ってば心配性なんだからぁ」
野球部のガタイのいいお調子者がそう言えば、クラスにどっと笑いが広がる。
しかし担任は笑わなかった。
「まぁ、そうだな……」
歯切れの悪い返し。
いつもは明るくて、生徒とも笑いながら話す先生がやけに真面目な顔をしていたことから色んな憶測が立てられた。
「被害者は男の子だった。」
「どうやら北区の方で起きた事件らしいよ。」
具体的な名前は出なかった。でも、彼らは事件の情報に飢えていた。興味本位の憶測はすぐに噂に形を変える。
「被害者ってさ……夏葵なんじゃね?」
「だから先生あんな濁してたんだ。」
「センセー、嘘つくの苦手だもんなぁ。」
誰が言い出したのかも、もう分からなかった。ただ、気づけばクラス中で囁かれるようになっていた。
「あいつ、あんな顔して、やっぱそういう目に遭うような奴なんだよ」
「母親もろくでもないって話だし」
夏葵の母親がスナックで働いているのを見かけたという北区出身の生徒の言葉が火に油を注いだ。
「スナックってさ、要は風俗みたいなもんだろ?」
「え、あいつもやってんじゃね?エンコーとか」
そんな風に、無責任な言葉たちが夏葵の居場所を奪っていく。夏葵は最初、何も言わなかった。ただ静かに、いつものように笑っていた。でも、陽翔には分かっていた。
あいつの目が笑っていないことも、教室にいるときは誰とも目を合わせないことも。
そんな夏葵の姿を見て、雅貴は心の奥底で思ってしまった。
――人気だった夏葵が、堕ちてきてくれた。
そしてすぐに、自分のその感情にぞっとした。こんな感情を抱いてしまった自分が怖かった。だからこそ、雅貴は勉強にのめり込むようになった。考える暇もないくらい、ただ、必死に。
そして迎えた一年最後の期末。泉は全クラス合わせて堂々の一位。
雅貴も、勉強の甲斐あってか十番以内に名前を載せた。
それでも胸が苦しかった。
陽翔は変わらず、夏葵のそばにいた。
「……また噂流れてたけど、気にすんなよ」
「べつに、気にしてねーよ。でもありがと。」
けれど、その陽翔と一緒にいることさえも、また新たな噂の種になった。
「あの二人、付き合ってるんじゃね?」
夏葵は、母のこともクラスのことも、全てに蓋をしていた。
スナックという仕事がどんなものなのか、正確には知らなかった。けれど、あのクラスメイトたちの下品な笑い声を聞いてしまえば、どうしても「汚い仕事だ」と思わされてしまった。
――母さんは、俺に嘘をついてたんだ。
昼間はスーパーのパート、夜はスナック。母は家にいる時間も少なく、けれど確かに、働いていた。
なのに、言われるのは「風俗嬢」「誰と寝てるか分かんない女」
自分のことよりも、母がそう言われるのが、たまらなく辛かった。
申し訳なくて、情けなくて、でも母に相談することも直接真実を聞くことも出来なかった。
そして、冬が過ぎていく。
変わらず誰かのせいで、変わらず誰かの言葉で、少しずつ狂っていく日々。
段々と崩れていく日常。
歯車はゆっくりと廻りだしている。
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