第9話

そしてようやく迎えた卒業式の日。

永遠にも思えた夏は終わってしまった。

長いようで、短くて。

でもとにかく濃くて楽しかった。


教室の窓の外には、まだ咲ききらない桜のつぼみがゆらゆらと風に吹かれて揺れていた。

つぼみ、落ちないといいけど。


卒業式に来たそれぞれの大人たちや先生はカメラを構えながら泣いていたりして、不思議な感じがした。

大人でも泣くのか、と思って気が付く。

大人が泣く姿を見るのはこれが初めてでは無かった。

俺たちの初めての夏休み、夏葵のお母さんの泣くところを俺たちは見ていたんだった。

あれからもう6年が経つが未だに忘れられることが出来ない。

そうだ、夏葵のお母さんは今日来ているのだろうか。

そう思い、なんとなく夏葵の方をちらっと見る。


どんな顔をしているのかな、と思ったがそこに居たのは、卒業が悲しそうでも寂しそうでもなく、いつかのように無理をして体を支えて背筋を必死に伸ばそうとする夏葵だった。

体育館の椅子に静かに座り、名前を呼ばれてしっかりと返事をしたけれど、あいつは一度も後ろを振り返らなかった。

頭を動かさず、じっと壇上を見詰めていた。

壇上に面白いものなんてないのに。


食い入るように前だけを見詰めていた。

振り返るのが怖かったのかもしれない。

そうだ、みんなの親や兄弟が参列していたあの空間で、夏葵のお母さんはいなかったんだ。


そして泉の兄ちゃん、真澄さんの姿も、同じくなかった。


式が終わって、友達と写真を撮って、教室で最後の時間を過ごして、昇降口を出たとき。

うちの母さんはぽろぽろと涙をこぼしていた。


「なんで泣いてんの」と茶化すと、「うるさいなぁ!」と小突かれて、思わず笑ってしまった。

でもそのあと、なんだか胸の奥がぎゅっとして、俺も少しだけ泣きそうになった。


その様子を、少し離れたところで夏葵が見ていた。

ランドセルの紐を片方だけ肩にかけて、無造作に上履きを袋に詰めながら、俺たちを、というより、“そういう家族の光景”を、眩しそうに眺めていた。


夏葵、呼ぶ前にさっさとあいつは翔って校門の外から出て行った。

みんながなんとなく校門の外に出たらもうこの時代が終わりなんだ、と思って出る勇気のない中、あいつは何も躊躇わずにその世界から飛び出ていく。


俺たち家族を眩しそうに夏葵は見ていたが、俺からすればそんな夏葵の方がずっと眩しかった。


そんな時間のあと、春休みがあっという間に過ぎて、制服採寸の日が来た。


中学の入学説明会の後、近くのショッピングモールの特設会場で、俺と母さん、雅貴とその母さん、泉と泉の母さんとで並んでサイズを測っていた。


試着室の前には、次から次へと制服を手にした親子が現れては、あれこれ言いながら試着していく。新品の制服。新品の靴。新品の通学カバン。誰もが当然のように、真新しいものを手に取っていた。


俺たちが試着を終えて、「ズボンちょっと長いか?」なんて言い合っていると、ふいに「……あれ?」と雅貴が声を上げた。


視線を追うと、少し離れたところに、夏葵がいた。いつものようにふらっとした歩き方で、でも今日はちょっとだけソワソワしてるようにも見えた。


夏葵に視線が吸い込まれていたが、ふと隣を見ればスタイルのいい女の人がいた。


最初、誰か分からなかった。

華奢で若くて、明るいベージュのコートを羽織ったその人は、まるで雑誌の中のモデルみたいに綺麗だった。


でも、顔立ちとなによりも口許のホクロで、すぐに分かった。


夏葵のお母さんだ。


泣いていた姿からは想像がつかないくらい力強く見えた。

もしかしたら夏葵と同じように隠すのが上手いだけなのかもしれないけれど。


俺たちがそっと様子を見ていると、夏葵は試着室の前で立ち止まり、少し困ったような顔をしながら制服の値札を見ていた。

だがその横で、お母さんが軽く笑って、値札ごと制服を手に取り、


「いーじゃん、夏葵、私に似てスタイルいいんだから絶対似合うよ。試着、してきな」と、何気ない調子で言った。


夏葵のお母さんは、夏葵の手に制服を握らせて、ぐいぐいと背中を押して試着室へと送り込んだ。

数分経ってから出てきた夏葵は目を奪われるほどよく学ランが似ていて、夏葵のお母さんが言うようにスタイルの良さが際立っていた。


「思った通り、似合ってるよ。夏葵おっきくなったねえ、あっという間に中学生だもんね。じゃ、ママ買ってくるから夏葵はその辺ふらふらしといて。」


そう言われた夏葵はほんの少しだけ目を丸くしていた。

卒業式の日には見れなかった顔だ。

感動と、なんだか胸が苦しくなるような寂しさ。

そのどれもを混ぜたような顔で夏葵は笑って、

「……ん、ありがと」と短く返していた。


ふたりの距離感は、不思議なほど自然だった。

普段の夏葵の様子から、もっとなんていうか、薄い関係かと思ってた。

俺たちが何年もあの家に通い続けても一度も会ったことがなかったし。

でも、あのふたりはそれでも幸せなんだ。

知らない夏葵の、今日までの生きてきた小さなピースを見つけられた気がした。


雅貴と泉がそれぞれ会計に向かって、俺のお母さんも会計に行く中で俺はぼんやりと立ち尽くしていた。

脳裏に浮かぶのは入学した直後に夏葵の口許のホクロに目が吸い込まれそうになった時のことだ。


夏葵のお母さんにあった口許のホクロを見て、あの時のデジャブを感じた。


夏葵のお母さんは、顔立ちも、雰囲気も、声のトーンも、どこか妖しいくらい夏葵に似ていて。

でも、夏葵のほうがずっとガサツで、ざらっとしていて、優しくて。


夏葵が笑うとき、口許のそれは緩く揺れる。


やっぱ、あのふたりはどこまでも似ていたな。

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