第8話

だが、世界は突然紙芝居のように切り替わる訳ではなく、緩やかに切り替わるものだ。

4年生の夏も、5年生の夏も、そして6年生の夏も、俺たちはそこは変わらず夏葵の家に通っていた。


ゲームを持ち寄って、近くのコンビニで買ったアイスを騒ぎながら食べて、俺の持ち込んだたこ焼き器を囲んで笑った。時々、雅貴は母親から電話がかかってきて「もう帰ってきなさい」と怒られていたし、泉も家でなにかあったのか落ち込んでいることもあったけど、それでもやっぱり、あのアパートの小さな部屋は、俺たちにとっての秘密基地だった。


変わってしまった点は、何もかもが輝いていて自由を四人で満喫できた時間は、もう戻ってこないというところ。


4年生になってから、泉は本格的に塾に通い始めた。

中学受験を狙っているという噂が流れていた。


「週3で行ってるんだ。兄ちゃんが勧めてきたからさ」なんて言って笑ってたけど、どこかその声は遠くて、夜遅くまで問題集を開いてるって話を聞くたび、俺は少しだけ寂しかった。


泉の兄――真澄さんは、7歳年上。4年生当時は高校2年生で、かなり優秀だったらしい。泉の家では“次男も当然、医学部へ”という空気が強かったけど、泉自身はその期待を真っ直ぐ受け止めるというより、兄の築いたものを壊さないようにって、その想いで頑張っていたような気がする。


泉が塾に行く日、夏葵の部屋には三人だけが集まるようになっていった。


それでも、夏葵は変わらなかった。

カレーを煮込んで、「よっしゃ、今日もバカみたいに食おうぜ!」って言ってくれた。

でもその笑顔の奥に、寂しさが滲んでいるのが分かった。

俺も、雅貴もそうだったから。


雅貴も、5年生の途中から、何かと母親と揉めるようになった。


「またあの子のとこ行ったの?」「なんで北区なんかに……」

そんな言葉を何度も聞かされていたし、俺らにも聞こえていた。ずっと。


「もう、つかれたな」って、ある日ぽつりとこぼした雅貴の声が、やけに小さかったのを覚えてる。


夏葵は、その様子を見ても、何も言わなかった。ただ、またいつものように体を揺らしてぼんやりしていた。

何を言うべきか、どう行動するか、ずっと考えていたのかもしれない。


でも唯一あの3年の夏みたいに思いっきりみんなで何もかも忘れてはしゃげた思い出もある。

5年生の夏のことだ。

みんなで小学校近くにあった市営プールに行った日があった。

屋外だったのでカエルがぷかぷか浮いていて面白かった。


入り口をくぐった瞬間、ツンと鼻をつくあの独特な塩素の匂いが襲ってきた。陽に焼けたコンクリートと混ざって、何とも言えない夏の匂いだった。小学生だらけの喧騒のなか、俺たちはタオルを片手に浮き輪を抱えて、嬉々として中へ入っていった。


俺は無駄に浮き輪を二重に装着して「見てくれ、俺は今日沈まない!」とふざけてたし、泉は黙々と25メートルを泳いでた。雅貴は水かけんなよ、と俺たちの水かけに巻き込まれて不機嫌そうに笑っていた。


でも、やけに印象に残っているのは夏葵だった。


初めてのプールだったらしい。


前の週、どこか落ち着かない様子で「……なぁ、水着って、やっぱ買わなきゃ変かな」ってぽつりと俺に聞いてきた。まぁそりゃあな、と返せば少しだけ笑って「母さんに言ってみっかな」と呟いたのを覚えてる。


そして、数日後。


「なに遠慮してんの、そんなの買いに行こ。どうせなら派手なやつ選びな!溺れてもすぐ分かるように、ってね!」


そう言って、夏葵の母が、珍しく優しい口調で声をかけてくれたらしい。しかし、欲しい水着の値段を見れば、決して安い訳ではなかった。

昼夜問わず働く母の姿を思い出して、そっと安くて無地の水着を選ぼうとすれば母はツカツカとヒールを鳴らして近づいてきて、


「夏葵、遠慮すんなって言ったでしょ、友達とプール行くんでしょ、好きなの選びなって。ほらこれでいいの?ママ買ってくるかんね」


と元々欲しかった水着を買ってくれたというのだ。

水着売り場でのことを、夏葵は少し照れくさそうに話してくれた。「俺、一生これ着るわ!」なんて言いながら。


そうして手に入れた真新しい水着を着て、夏葵はあの日、信じられないくらいはしゃいでいた。


俺の記憶の中で、あの日の夏葵はずっと笑っていて。

俺達も普段感じていた、どこか鬱屈とした気持ちや変わっていく俺達の世界に対する寂しさや恐怖が無くなっていた。


何年経っても、塩素の匂いを嗅ぐと、あのときの空気と夏葵の声がふっとよみがえる。


そして6年生。


俺たちはそれぞれの家庭で中学進学の話が始まっていた。


夏葵と俺は、当然のように地元の中学へ行くことになった。悩むこともなかったし、特に話題にすらのぼらなかった。


泉は塾に通っていたし、親戚からも「久我家は代々医者の家だから」とか「当然私立の進学校だろう」と期待されていた。でも、泉は珍しくはっきりと「俺は地元の中学に行きたい」と言ったらしい。


それは、兄・真澄さんのひとことが大きかったという。


当時の真澄さんは高校を卒業して浪人をしていた。一浪目で次こそは、という親戚からの圧力はもの凄いものだっただろうに相変わらず優しい兄で、泉の話を丁寧に聞いて、静かに、でもしっかりと支えてくれていた。


「お前が行きたいなら、そこが正解だよ。俺のことでいま家がうるさくなってるけどさ。お前はお前の道を行くべきだ。」


そんな言葉を、泉はずっと心に刻んでた。


それでも泉の家は一度揉めたのだが。

優秀な真澄さんが医学部に現役入学失敗したことで、その下の子供、泉に注目が集まったからだろう。けど、真澄さんが強く「泉に任せてやって」と祖母や母に伝えてくれて、最終的に「まあ、いいんじゃないか」と言ってもらえたらしい。初めてのわがままだったし、真澄だけでなく泉もずっと優等生で、文句のつけようがなかったから。


雅貴の家は、母親が最後まで反対していた。


「地元の公立中学になんて、行かせられません」って。


けど、そこを覆したのは泉の存在が大きかった。

地元でも有名な久我内科の息子、泉も公立中学校に進むと聞いてから、急に母親の態度が和らいだ。


医者の息子、成績優秀、育ちのいい子と一緒なら、という理屈だった。ほんと、雅貴の母親ってそういう人だ。


そして、俺たちは4人そろって、地元の中学へ進学することが決まった。


でも。

夏葵だけは、あの、三年目の夏に取り残されたままだった。


あのときの笑い声。痣のない腕。ふざけ合って、俺らが初めて作ったやけに水っぽいカレーを食べたあの時間。


季節は巡って、俺たちは少しずつ“進んで”いた。

家庭のこと、将来のこと。学校や塾、兄や親。


でも、夏葵の部屋だけは変わらなかった。


今でも小さくて、狭くて、カーテンはちょっと焦げたままで。

壁に貼った4人のプリクラが色褪せかけていて、相変わらず廊下に置かれた洗濯機はうるさかった。

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