第7話
夏葵の家に初めて連れて行ってもらった日のことは、今でもよく覚えてる。
北区のはずれ。駅から少し離れた小さなアパートの二階。廊下の鉄板がギシギシ鳴るようなところで、洗濯機が廊下に置かれててゴウンゴウン言いながら激しく回ってたのが物珍しかった。
一回二百円、と達筆な文字で書かれていたのでお金を入れて使うのかもしれない。
外にはいつも何かしらの生活音が聞こえてくる。道路沿いには古びたスナックや居酒屋が立ち並んでいて、日が沈む頃にはネオンと笑い声がちらほら灯り始める。
街灯がない代わりにそれらが街の光になっているようだった。
「お母さん、スーパーと居酒屋で働いてるからさ。夜中に帰ってくるんだよね。だから俺、今ほとんどひとり暮らしちゅーってわけ。」
夏葵はそう言って、俺たちを部屋に招き入れてくれた。俺、泉、雅貴。4人で集まるのは放課後だけじゃ飽き足らず、気づけば休日にも入り浸るようになっていた。
台所は狭かったけど、みんなで料理をするのは意外と楽しくて、最初はカレー、次は焼きそば、時には冷凍餃子を焼いてみたりした。俺の家からたこ焼き器を持って行って、泉と雅貴が材料を持って行って焼いたこともあった。泉が計量にうるさくて、雅貴が包丁をぎこちなく握って笑われて、夏葵がテキトーに味付けして、俺がそれを全力で褒める。
泉の持っていたゲーム機を奪い合うようにして遊んだこともあった。
ゲームの音と笑い声が部屋に響く、そんな時間が、宝物みたいだった。
永遠だった。
どこまでも続くと信じていて、眩しくて、楽しくて。
暗くて狭い北区のボロアパートの一室が俺たちの楽園だった。
そして俺たちが出会ってから三度目の夏。
夏葵が、初めて、半袖と短パンを着た。
正直、驚いた。
夏葵の腕。あの、前に見た痣があったはずの細い腕が、すっと陽に透けていて、真っ白だった。怖かった。また痣が残ってたらどうしようって、無意識に視線を滑らせたんだ。でも、なにもなかった。傷一つ、なかった。
全部なかったみたいになっていた。
それが、どれだけのことか、きっと夏葵自身が一番わかってたんだと思う。
「ふふん、どうよ。おれだって、夏くらい涼しく過ごしたいし。」
なんて言って、大げさに胸を張るから、俺は思わず「カッケ〜〜〜!!」って叫んだ。そしたら泉が吹き出して、雅貴が冷めた目で「声でけー」と呟いた。でも、みんな笑ってた。
夏葵が笑うときの声は、どんどん大きくなっていった。最初はどこか歪で押し殺すみたいな笑い方だったのに、今では腹の底から笑う。冗談を言えばすぐに突っ込んでくるし、ふざけたことも言うようになった。
元気になった、って言葉じゃ足りない。あの場所で、俺たちは本当に、夏を取り戻していったんだ。
でも、その影で、少しずつ何かが歪みはじめていた。
雅貴の母さんが、あからさまに嫌な顔をするようになった。
いや、顔は見てないけど。電話越しに聞こえる声から想像したらすげー嫌な顔になったから。
金切り声も聞こえたし、縋るような声の時もあった。
雅貴は当時、ケータイにGPSを付けられていたから、夏葵の家に行ったのがバレると電話や大量のメールが送られてきていたのだ。
「北区なんて危ない場所に子どもが通うのはおかしいでしょ」とか、「近所の人の目もあるのよ」なんて、もっともらしいことを言いながら、本当はただ、夏葵が気に入らなかったんだと思う。
雅貴も最初は母親に反論せず、ただ無言でやり過ごしていたけど、だんだんと声を荒らげるようになっていった。帰り道にため息をつく回数が増えて、俺が「だいじょぶか?」って聞くと、「……別に」って小さく答えた。
夏葵はその姿を見るたび、口を小さく開けてぼんやりとしていた。
たぶん、どうしたらいいのか分からなかったんだと思う。
泉もその頃から塾に通い始めた。泉の家は代々医者の家系で、進路は最初から決められていた。彼は笑っていたけど、その目は、ちょっとだけ遠くを見ていた。
どうやら7歳上のお兄さんの医学部受験が2年後に迫ってきていて、家庭内が少しピリピリしていたらしいからその事を考えていたのかもしれない。
俺たちは、同じ時間を過ごして、同じように笑って、同じように夏を好きになっていったのに、俺らの生きる世界はそのままでいることを許してくれない。
俺らはいつまでも夏葵の家で、秘密基地で遊ぶこどものように暮らしていたかったのに。
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