第5話
何も出来ないまま、長く感じた夏が終わった。
今年は、蝉の声が急に途切れた気がした。
気づけば夜はすっかり風が涼しくて、近所の銀杏が色めいてきている。
夏葵の家には、結局、誰も行けなかった。
陽翔の夢の中には、あの陽炎の道が、何度も、何度も、出てきて歩いたのだけれど。
どうしても行けなかった。
そして、二学期の始業式の日。
「……来るかな、今日」
「うーん……わかんないな……」
陽翔と雅貴と泉、3人が教室でそんなふうにソワソワして話していると、その背後から、聞き慣れた声がした。
「おはよー」
振り返ると、夏葵が、そこにいた。
ランドセルを背負って、ちょっと髪が伸びて、
でも変わらない顔で、変わらない口調で――
まるで何事もなかったかのように、笑っていた。
「……なつ、き……?」
声が掠れてしまったのは陽翔のほうだった。
「なに? 久しぶりすぎて忘れた?」
「いや、忘れてねーけど!」
軽口を叩きながらも、陽翔は心のどこかで違和感を覚えていた。
たしかに夏葵は“いつも通り”でいてくれているけれど、
それが逆におかしく感じた。
なにか隠しているように思えて。
そして、朝の出席確認の時間。
「浅倉陽翔くん」
「…はーいげんきでーす」
「如月雅貴くん」
「はい。」
「久我泉くん」
「…はい。」
ときて、次は夏葵の番だ、と思って少し身構えたのに、黒瀬夏葵は呼ばれず、代わりに呼ばれたのは夏葵の次の出席番号の子だった。
もしかして、夏葵は幽霊になっちゃって、俺らにしか見えてなくて……と震え始めたところで、陽翔の耳に聞き慣れた名前と聞き慣れない名字が聞こえた。
「長谷夏葵くん」
夏葵、のことだよな?
長谷?って言った?
静かにざわめきが伝染していく中で、
「はい」
と答える夏葵の声は何処か鋭さを持って刺すような声だった。
「ねぇ、黒瀬くんじゃなかったっけ?」
「お母さんの名字になったんだって」
「えっ、じゃあリコン?」
「そーそー、なんかさ、うちのママが言ってたけど――」
陽翔は、あの日の噂話に花を咲かせる大人たちを思い出していた。
その“母親たちの声のコピー”が嫌だ。
自分たちは何も知らないのに、勝手にベラベラとしゃべっているのがたまらなく嫌だ。
夏葵は、何も聞いていないふりをしていた。
線の細い体を凛と伸ばしていたが、錆びた鉄線で無理に支えているかのように見えて痛々しかった。
だって、聞こえている。
全部、聞こえているから。
でも、夏葵は最後までなにも言わなかった。
夏葵はそういう人間なのだ。
どんだけボロボロでも弱さを見せない、見せてくれないひと。
それが堪らなく悲しくて、辛くて。
そしてどうしても、美しかった。
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