第3話

あの日からどこかまた暗い顔をするようになってしまった夏葵を励まそうとどうにか三人で話し合った。

けれどあまりいい案は出なくて。

結局いつも通り遊ぶことにした。

夏葵もその方がきっといいだろうし、と。


待ち合わせは、いつもの公園。

今日は休日、みんなランドセルを背負わずに済む日だった。


けれど、待てど暮らせど、肝心の夏葵が来ない。


「……今日、ほんとに来るって言ってたよな?」


陽翔が、何度目か分からない確認をする。

雅貴と泉も、うなずくだけで答えた。


誰も連絡先なんて知らなかった。

家も、聞いたことがなかった。

「教えてよ」と言ったこともあるけど、夏葵はそのたびに「秘密」と笑ってごまかしたから。


「……おれ、ちょっと探検してくる」


陽翔が、急にそんなことを言い出した。


「夏葵、帰りはいつもあっちの方向に歩いてる。だから、おれも歩いてみる。」


泉が少しだけ眉をひそめる。


「大丈夫なのか?」


「大丈夫じゃない気がするから、行くんだろ」


その言葉に、雅貴と泉も黙って頷き、3人は歩き出した。


街の音は穏やかだった。

犬の散歩をしている人、買い物帰りの親子連れ。

のどかで、平和で、暖かくて。

もしかしたら夏葵は寝坊しただけなのかもしれない。

そうだったら寝坊助夏葵とからかってやろう、という考えが頭に浮かび始めた陽翔たちの思考を止めたのはガシャン、と何かが割れる音が響いたからだった。


とあるボロアパートの方角だった。


「……いまの、なに?」


振り返る陽翔に、泉と雅貴も立ち止まる。


次の瞬間、聞こえてきたのは怒鳴り声。

女の人の泣き声。

そして。


「やだ!やめて!たすけて、たすけて!」


――子どもの声。


その声を、3人は知っていた。

耳が勝手に、夏葵の顔を思い出していた。

背筋が凍るような感覚。


「……夏葵、だ」


誰がそう言ったか、分からなかった。

だけど確かにその場の空気が、止まった。


動けない。足がすくんだ。

けれど耳だけは、しっかりとすべてを拾ってしまう。


鈍い音。

泣き叫ぶ声。

扉が揺れる音。


サッカーボールが、ぽろりと陽翔の手から落ちて、地面を跳ねた。

ボールの音だけが、空間に響いて、蝉が鳴き始める。


なんだかその時間が永遠にも思えたそのときだった。


「殺してやる!!!」


低くて、どす黒くて、陽翔が叱られる時と違う殺意の乗ったような怖い声。


「……っ!」


空気が変わった。

耳鳴りがした。


寒かった。


夏が近いはずのこの季節に、

背中を汗が伝うたびに、震えた。


「やだ、やだ……やめて……っ」


泣き叫ぶ声。

割れる音、壊れる音、ぶつかる音。


誰かが警察を呼んだのか、遠くからサイレンの音が近づいてくる。


でもそれすら、現実味がなかった。


足も、手も、動かない。

言葉が、出ない。

ただ、耳がすべてを覚えていた。


夏葵の、あの声。

そして、「殺してやる」と叫んだ、知らない男の声。


どこからともなく大人たちが集まってきていた。


「パトカー来てるぞ」

「またあそこか……黒瀬さんち、だろ?」

「いや、子どもが……」「また警察沙汰かよ……」


ひそひそ、ざわざわ、じろじろ。

好奇心と軽蔑と、そしてどこか慣れたような声色が、耳を打った。


「また、黒瀬さんち?」


その言葉が陽翔の中で、最後の引き金を引いた。


沢山の大人の気持ち悪い好奇心に陽翔は堪えきれずに走り出した。


「うるせえっ!」


叫んだのか、叫びそうになっただけだったのか、もうわからなかった。

視界が歪んで、どこを見ているのかも分からない。


ただ、走った。

どこへでもいい、ここじゃない場所へ。


「陽翔!」


雅貴が後ろから声をかける。

泉も、迷わず追いかけていた。


誰も言葉を交わさなかった。

でも3人とも、同じように怖くて、

同じように吐き気がしていて、

同じように、ただ悔しかった。


黒瀬さんちは見世物じゃない。

お前らの話のネタじゃない。

あれがネタにされてたまるかよ。


逃げるように走る足音だけが、乾いたアスファルトを叩いた。


誰も、振り返らなかった。


その日、3人の中に、

夏葵の叫び声と、「殺してやる」と叫んだ男の声と、

誰かが呟いた「また黒瀬さんち?」という軽い声が、

深く、深く、耳に刺さって抜けなかった。

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