第09話(全26話) 幕末の蝦夷地

 寛政四年(1792年)九月、江戸城西ノ丸。蝋燭の灯が揺れる静寂の中、老中首座である松平定信は、北方の地図を睨んでいた。松前藩から取り寄せたそれは粗末なものだったが、蝦夷地、樺太、そしてカムチャツカへと連なる広大な土地が、いかに日本の辺境でありながら、他国の脅威に晒されているかを痛いほどに示していた。


 北の情勢は不穏であった。ロシアの船が頻繁に出没し、松前藩の対応は後手に回っている。かつて田沼意次が推し進めた蝦夷地開発は、その失脚とともに頓挫した。その中止は定信自身が指示したものだ。蝦夷地は放棄し、下北半島田名部に奉行所を置く、そう決断した。しかし、自分が幕政を担って以降、ロシアの動きはむしろ活発化している。このまま北辺を松前藩にのみ委ねておくことの危うさを、定信は感じていた。


「老中様、大黒屋幸太夫殿、お戻りになられました」


 側近の声に、定信は地図から顔を上げた。静かに頷き、対面を命じる。幸太夫。伊勢の船乗りであったが、十年前に難破し、カムチャツカに漂着。ロシアの都サンクトペテルブルクまで赴き、女帝エカテリーナにも謁見したという数奇な運命の男。今、ロシア使節ラクスマンに伴われ、故国の土を再び踏んだのだ。


 対面した幸太夫は、異国での体験を淀みなく語った。


「ロシアは、広大無辺の国にございます。されど、北は氷に閉ざされ、南はトルコとの戦に明け暮れておりました」


 その言葉は、定信の頭の中に巨大な帝国の姿を形作っていく。一枚岩ではない。広大な領土を維持するための矛盾を内に孕んでいる。そして、幸太夫は決定的な一言を口にした。


「女帝エカテリーナは、日本の産物や文物を強く求めておいででした。とりわけ、日本の工芸品は、彼の地では至宝の如く扱われております」


 定信の脳裏に、蝦夷地の交易を独占し、利権を手放そうとしない松前藩の頑なな姿が浮かんだ。彼らにロシアという大国を相手取る力はない。


「幸太夫。露西亜は、日本と交易を望んでいると、そう申すか」


 定信の問いに、幸太夫は力強く頷いた。


「はっ。絹、茶、陶器を渇望しております。引き換えに、彼らが持つ毛皮や鉄、そして何より、西洋の新しい知識を伝えたいと申しておりました」


 定信の視線が、再び地図に吸い寄せられた。ロシアとの交易。それは、幕府が蝦夷地を直轄し、松前藩の利権を排して主導権を握る絶好の機会ではないか。北辺の支配を確立し、交易による富と情報で幕府財政を潤し、同時にロシアの動向を間近で探る。


「……決めた」


 静かだが、鋼のような決意を込めた声が、室内に響いた。


「蝦夷地は松前藩より召し上げる。箱館に奉行所を置き、ロシアとの交易は、幕府がこれを行う」


 定信の決断は将軍家斉と老中たちに伝えられた。信牌を与えて返したラクスマンの次の使節の到来はいつになるだろう。それまでにロシアと正式な外交関係を結ぶ準備を整えなくては。定信は心中が沸き立つような興奮を覚えていた。




 レザノフは激怒し、長崎を去った。

 先年、日本の漂流民をネムロに送ったラクスマンは「信牌」を持ち帰った。これは長崎で外交交渉を行う約束の印だということだった。エカテリーナ陛下は大変お喜びになり、この私レザノフに日本との国交を開く名誉をお与えになった。


「それなのにこの様か……」


 信牌は取り上られ、すぐに長崎を退去するように伝えられた。聞けば信牌を与えた、ロシアとの国交樹立に前向きだった政府首脳が罷免され、前例踏襲の覇気のない者たちが首脳の地位にあるという。


 レザノフは報復として軍人たちにカラフト、エトロフの襲撃を命じて、失意のまま帝都に戻って行った。




 蝦夷地は松前藩から接収され、箱館に奉行所が置かれた。

 箱館奉行はカラフト・エトロフ襲撃の報復としてロシア軍人ゴローニンを捕えた。そしてロシア側はその報復として箱館で開発に尽力していた高田屋嘉兵衛を拉致した。


 ゴローニンと嘉兵衛は、互いの国の「人質」となった。二人の交換交渉は、難航を極めた。しかし、嘉兵衛の優れた交渉術と、ロシア側の事情が、事態を動かした。ナポレオン戦争が勃発し、ロシアは東方への関心を一時的に失ったのだ。


 文化十年(1813年)、ゴローニンと嘉兵衛の交換が成立した。日本とロシアの関係は、一時的な小康状態に入った。この機会を捉えたのが、松前藩家老の蠣崎波響だった。彼は、蝦夷地を幕府に返還してもらうための外交交渉を、幕府に対して粘り強く行った。


「この度の一連の騒動は、幕府が蝦夷地を直轄化したことに起因する。松前藩の伝統的な外交手腕に任せておけば、このような事態にはならなかったはずだ」


 波響の言葉は、幕府の役人たちの心を揺さぶった。長年にわたるロシアとの対立、そして、度重なる騒乱に疲弊していた幕府は、波響の言葉に耳を傾けた。


 そして、ついに、幕府は箱館奉行を廃止し、蝦夷地を松前藩に返還することを決定した。


 箱館奉行所の庁舎から、幕府の役人たちが慌ただしく荷物を運び出していた。時の箱館奉行高橋重賢は蝦夷地の返還についてなにも知らされないでいた。高橋は箱館奉行所設置の段階から幕府の蝦夷地政策に参加していた。場所請負人らによるアイヌへの虐待の緩和、アイヌが売られていく山丹交易の廃止、八王子千人同心らによる入植事業、そして蝦夷地での稲作……、なにもかもが中途半端なまま、蝦夷地から幕府が撤退する。

 高橋は、自分の蝦夷地での半生は何だったんだろうと、忸怩たる思いに包まれていた。




 蝦夷地の松前藩への還付から数十年ののち、日本の北辺を巡る情勢は、新たな局面を迎えていた。


 安政元年(1854年)六月、箱館。港を見下ろす高台に、再置された箱館奉行としてこの地を踏んだ勘定出身の竹内保徳の姿があった。彼の傍らには、江戸から連れてきた用人が控えている。


 青い空に異国の帆が翻り、湾内には黒く巨大な船体が浮かんでいた。日本の和船とは似ても似つかぬ威容。見慣れぬ星条の旗が風にはためき、港に満ちる人々の声には緊張と好奇が入り混じっていた。


「あれが……アメリカの蒸気船か」


 保徳は苦々しげに呟いた。かつてこの箱館が、松前藩の画策で再びその手に戻った経緯を知る者として、今、幕府の直轄地として開港を迫られる現実は、皮肉としか言いようがなかった。


「我らが長崎でロシアと交渉している隙に、奴らは江戸湾に乗り付けた。そして、この箱館を開けと、有無を言わさず……」


 ロシアのプチャーチン提督が見せた紳士的な交渉態度と、アメリカのペリー提督が見せた軍事力を背景にした高圧的な態度。そのあまりの違いが、保徳にはいまだに解せなかった。


「彼らは、何を欲しておりますのでしょうか」


 用人の問いに、保徳は懐から書状を取り出した。


「水、食料、そして石炭だ。彼らの船は水蒸気の力で動く。そのための薪が必要だという」


 用人は息をのんだ。西洋の技術は、日本の想像を遥かに超えている。だが、要求はそれだけではなかった。


「もう一つ、鯨の油だ。彼らの国では、機械を動かすために大量の油を使い、それを鯨から得ている。故に、奴らの捕鯨船がこの北太平洋までやってくる。箱館は、その補給基地として最適の地だというわけだ」


 なるほど、と用人は頷いた。北の海が鯨の宝庫であることは、漁師たちの間では知られていた。アメリカがこの港を求めるのは、理に適っている。


「幕府の決定だ。我らはこの地に奉行所を再設し、彼らの要求に応えねばならぬ」


 保徳は、己に言い聞かせるように告げた。港には、アメリカの船に交じり、イギリスやフランスの船も見えた。異国の文化、技術、そして思想が、この箱館から奔流となって日本に流れ込むだろう。それは、抗うことのできぬ、新しい時代の幕開けであった。箱館の港は、静かに、しかし確かに、日本の夜明けを告げていた。




 箱館。箱館山を背にした奉行所の一室で、河津三郎太郎は北方の地図を広げていた。傍らには、蝦夷地の産物、人口、風土を記した帳面が山と積まれている。将軍に拝謁することも叶わぬ徒目付という御家人の身でありながら、ひたすらこの北の大地を歩き、調べ続けてきた。安政の開国を機に箱館が再び幕府直轄となり、奉行所が再設されるや、彼はその知識と情熱を買われ、支配調役の役につき、その後驚異的な昇進で、今では奉行に次ぐ第二位、組頭の地位にある。


「河津殿、例の件、いかが進められようか」


 声をかけてきたのは、同僚の永井五郎左衛門である。彼は、河津の蝦夷地に対する尋常ならざる見識に一目置いていた。


「永井殿。率直に申し上げる。今のままでは、蝦夷地の安定はおぼつかない」


 河津は地図から目を離さずに答えた。


「この地の人口は、アイヌの人々二万弱に、東北からの出稼ぎ漁民が主。彼らは冬になれば帰ってしまう。これでは、異国船が頻繁に出入りするこの地を、日本の地として守り通すことはできぬ」


 開国という激動の中、ロシアやアメリカがこの地を虎視眈々と狙っている。その危機感は、奉行所の誰もが共有していた。


「もはや蝦夷地は辺境ではない。西欧諸国が国境に民を住まわせるように、我らもこの地に人を根付かせねば。さもなくば、いずれこの地は異国に奪われよう」


 河津の指が、広大な未開の地を滑る。


「そこでだ。私が考えているのは、農耕と養蚕だ」


「農耕と、養蚕……ですか?」


 蝦夷地は稲作に不向きというのが定説であった。永井が意外な顔をするのも無理はない。だが、河津の言葉は熱を帯びていた。


「我ら日本人の魂の源は、稲作にある。神を祀り、酒を造り、米を食す。文化そのものです。熱帯の作物であった稲を、先人たちは知恵と工夫で寒冷の地まで広げてきた。この蝦夷地でできぬはずがない。稲作が根付けば、民は土地に根を張り、永住する。それは食料の確保に留まらず、日本人の精神をこの地に深く植え付けることに繋がるのです」


 第一次幕領期にも稲作の試みはあった。だが、今は技術も知識も違う。寒さに強い品種を探し、開墾法を改めれば、必ずや黄金の穂は実る。河津には、その確信があった。


「そして、もう一つが養蚕。はじめは農桑という言葉からの着想に過ぎなかったが、調べればこの地には野生の桑が自生し、山蚕もいる。気候も養蚕に適しております。お考えくだされ。異国は日本の絹を求めてやってくる。箱館で良質な生糸が産出できれば、それは国の富となり、民を潤す。稲作と組み合わせれば、民は一年を通して安定した暮らしを得られましょう」


 永井は、河津の壮大な構想にただ圧倒されていた。一介の御家人が、今や奉行に次ぐ組頭にまで昇進し、蝦夷地の未来をその両肩に担おうとしている。その知識と経験のすべてが、この日のために蓄えられてきたかのようだった。


「稲作と養蚕。この二つを蝦夷地発展の礎とする。成功すれば、この地はもはや辺境ではない。日本の北門として、交易の要として、国防の拠点として生まれ変わるはずです」


 河津は地図を丁寧に巻き上げた。その顔には、困難な未来へ向かう者の静かな決意が満ちていた。この日、組頭への昇進と同時に旗本への昇格を果たした河津三郎太郎は、蝦夷地の未来を切り拓くための、大きな第一歩を踏み出した。




 春。雪解け水の音が聞こえ始めた箱館の坂道を、河津三郎太郎は足早に上っていた。目指すは、栗本鋤雲の家である。将軍の脈をとる御典医の身でありながら、上司の不興を買ってこの地に流された男。当初は、多くの者と同じく、北の僻地での暮らしに不満を募らせているのだろうと思っていた。だが、聞こえてくる噂は奇妙なものだった。


「栗本様は、百姓や職人の輪に好んで入られる。泥まみれになり、土を舐めている姿を見たと言うものもおります……」


 幕府の役人でありながら、誰とでも隔たりなく接する自分とどこか通じるものを、河津はその「奇行」に感じていた。


 栗本の家は質素な構えだったが、庭先には見慣れぬ薬草が所狭しと植えられていた。中から現れたのは、土にまみれた一人の男。栗本鋤雲その人であった。


「おや、奉行所の方ではないか。何か御用で?」


 栗本は、警戒と好奇の入り混じった目で河津を見つめた。河津は、にこやかに頭を下げる。


「河津三郎太郎と申します。栗本先生の噂をかねがね耳にし、一度お目にかかりたく参上いたしました」


 その謙虚な態度に、栗本は少しだけ表情を和らげ、河津を家に招き入れた。


「先生は、医術の傍ら、この地の産物で新たな品を作ろうとされているとか」


 河津が単刀直入に切り出すと、栗本は驚いた顔をした。奉行所の役人といえば、利権と出世しか頭にないと思っていたからだ。


「……ええ。八丈島の泥染めに似た、独特の泥がこの地にある。これを使えば、何か面白いものができるやもしれぬと」


 そう語る栗本の瞳には、探求者の光が宿っていた。それは地位を追われた男の顔ではなく、未知なるものに挑む者の顔であった。この男は、ただの医者ではない。この蝦夷地の未来を、真剣に考えている。河津は確信した。


「先生は、奉行所の者とはあまり交わらないと伺いましたが」


 あえてそう問うと、栗本は苦笑した。


「どうも、気が合わなくてな。それより、百姓や職人と話している方が、よほど学びが多い。……ああ、それから、フランスから来た宣教師のところへも、時々顔を出しております。西洋の文化は、実に興味深い」


 その言葉に、河津の胸は高鳴った。奇人ではない。この男は、自分に必要な導き手の一人だ。


「栗本先生。貴殿のようなお方が、これからの奉行所には必要なのです」


 河津は、真っ直ぐに栗本の目を見つめて言った。


「何を、申される」


「貴殿の知識と経験、身分に囚われぬ広い見識、そして何より、この地を思う心。それが、今後の蝦夷地には不可欠です。医者としてではなく、奉行所の役人として、私と共にこの地のために働いてはいただけませぬか」


 河津の真摯な言葉は、栗本の胸の奥深くに突き刺さった。考えたこともなかった道だ。だが、目の前の男の曇りなき瞳は、彼の心を捉えて離さない。この男となら、この北の大地の未来を、共に創っていけるやもしれぬ。


 栗本は、静かに河津の申し出を受け入れた。この日、二人の男の邂逅が、蝦夷地の、そして日本の歴史を、新たな方角へと大きく動かし始めることとなる。

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笠鷺経済大学物語 万里小路 信房 @madenocoji

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