第08話(全26話) 織衛

 カエデの趣味は、ローカルな遊園地巡りだ。県内だけでなく、隣県まで足を延ばすほどである。

「遊園地をテーマに、卒論って書けないかな」

 ミサキは、カエデがそんなことを呟いているのを聞いたことがある。

 以前、今はもう閉園してしまった富岡の遊園地の写真を見せてもらったこともあった。

「ほら、ガンダムとか、快傑ライオン丸の乗り物もあったんだよ」

 嬉々として話すカエデは、普段の凛とした姿とは違って可愛らしいなと、ミサキは感じた。


 そのカエデの提案で、今日の合気道の稽古後のドライブ先は、伊勢崎の華蔵寺公園に決まった。


 華蔵寺公園の観覧車を降りると、ミサキには、さっきまでよりも少しだけ世界が輝いて見えた。伊勢崎の街並みが一望できる最上部で、ミワと他愛もない話をしたからかもしれない。ゴンドラが揺れるたびに、錆びた鉄骨がきしむ音がする。眼下に広がる街は、まるで作り物のように小さく見えた。


「昔から全然変わらないね」


 伊勢崎出身のミワが言う。この遊園地は笠鷺の小学校の遠足でも訪れる、この地域の子どもたちにはおなじみの場所なのだそうだ。


 カエデは写真を撮るのに夢中になっている。その間、ミサキはミワと二人でメリーゴーランドやジェットコースターに乗り、アトラクションを楽しんだ。


 正直、大学生が遊びに来るような場所ではないのでは、と思っていた。しかし、観覧車とメリーゴーランドに乗ったら、そんなことはどうでもよくなった。周りを見渡せば、子ども連ればかりでなくカップルの姿もある。


「ちょっと休憩しようか」


 ミワの提案で、自動販売機でジュースを買い、隣接する公園のベンチに腰を下ろした。


 ミサキがふと辺りを見回すと、ノブフサが何かの石碑を眺めているのが視界の隅に入った。


「ちょっと待ってて」


 ミサキはミワにそう断ると、ノブフサの方へ歩み寄った。


「ノブフサ先輩、何を見ているんですか?」


「ああ、ミサキ君か」


 ノブフサは、振り向きもせずに答えた。


「これは伊勢崎の実業家の功績を称える石碑なんだが、若い頃に新井雀里のもとで勉強した、とある」


「新井雀里?」


「前に話さなかったかな。伊勢崎出身で、蝦夷地へ渡った人物だよ」


 ミサキは、こんな場所でも故郷の北海道との見えない糸を感じていた。


「彼は優秀だが性格に難があり、敵の多い人物だったようだ。伊勢崎の藩校では筆頭だったが、蝦夷地へ左遷させられた。だが、彼も栗本鋤雲のように、その左遷先での生活を楽しんでいたらしい」


 左遷と聞くと、誰もがうなだれて任地へ赴くイメージしかなかった。しかし、ノブフサが語る人物には、逆境さえも楽しむような人が多いなとミサキは思った。


「彼は蝦夷地で養蚕、製糸、機織りを広めるため、伊勢崎から人を連れて行った。その一行の中に、大野村で機織りをした『ちか』という女性がいる」


 大野は、ミサキの出身地である七飯町の隣、北斗市の地名だ。やはり、見えない糸でつながっている。ミサキはそう確信した。


 ノブフサは一通り話し終えると、「じゃあ、また」と言い残し、丸い身体を揺らしながら去って行った。


 ミサキがミワの元に戻ると、ミワがからかうように尋ねてきた。


「ミサキって、ああいうのがタイプなの?」


「違うよー」


「だよねー」


 ミサキは笑いながら否定した。


 その後は二人で、今日の稽古のことや次の授業のことなど、他愛のないおしゃべりを楽しんだ。


 ノブフサ先輩が話してくれる歴史の話は少し難しいけれど、ミサキは嫌いではなかった。むしろ、自分の知らない世界を覗かせてもらっているようで、少しわくわくする。


 カエデ先輩のローカルな遊園地巡りも、ノブフサ先輩の歴史の話も、一見すると無関係に思える。でも、どちらもミサキに知らない世界を教えてくれるのだ。


 ミサキは、地元の猫である将殿から『織衛』という猫を探すよう依頼されていた。しかし、いまだに手掛かりはつかめていない。織衛は、ミサキの故郷の北海道と、今いる群馬とを結ぶ、大事な存在のはずだ。


 ノブフサ先輩が話してくれた、蝦夷地と群馬を結ぶ糸。それはきっと、織衛を探すためのヒントになるに違いない。


 ミサキは、そんなことをぼんやりと考えていた。




 ミサキとミワは遊園地に戻り、パンフレットを広げて次は何に乗ろうかと話していた。サイクルモノレールか、それとも道路を挟んだ向こう側にあるジェットコースターか。二人の視線がパンフレットの上で楽しげに踊る。そんな時、背後から優しい声がかけられた。


「ミサキちゃん、さっきノブフサ先輩と何を話していたの?」


 振り返ると、カエデがにこやかに立っていた。その手にはミルクティーの缶が握られている。先輩はいつも落ち着いていて、まるで春の陽だまりのような温かさがある人だ。


「ええと、あそこの石碑に新井雀里という人の名前が彫ってあって、その人は北海道に行っていた、と教えてもらいました」


「ふーん」


 カエデはそう相槌を打つと、手の中のスマートフォンを操作し始めた。指先が画面の上を軽快に滑っていく。その真剣な横顔に、ミサキは少しだけ緊張を覚えた。何かを探しているようだった。


「ジャクリって、どんな漢字?」


「雀に、里です」


 ミサキの答えを聞き、カエデは「なるほど」と小さく呟いて、さらに検索を進めていく。やがて、画面に目を向けたまま顔を上げた。


「学者さんみたいね。近くにお墓があるみたいだけど、行ってみる?」


 その提案は、ミサキの好奇心を強くくすぐった。将殿から課せられた『織衛』を探すという依頼。その手掛かりが、この群馬の地にあるかもしれない。それに、せっかくここまで来たのだから、群馬のことをもっと知りたいという気持ちも強かった。


「はい、ぜひ行きたいです!」


 ミサキは興奮気味に返事をした。その時、隣にいたミワが少し寂しそうな顔をしていることに気づく。ミワを置いてきぼりにして、カエデとばかり話していたことに、ミサキは少し後ろめたさを感じた。


 結局、その後は三人で遊園地を心ゆくまで楽しんだ。ジェットコースターで大声で叫び、メリーゴーランドでは童心に帰ってはしゃいだ。カエデは時折ノブフサの話題を振ってはミサキの反応を伺うようなそぶりを見せたが、ミサキはそれに気づくことなく、純粋にアトラクションに夢中になっていた。


 夕暮れが近づき、遊園地の喧騒が少しずつ和らいでいく。解散の時間になった。カエデは、すでにノブフサにも話をつけていたようだった。


「三人で新井雀里のお墓がある善応寺に行くことにしたの。ノブフサ先輩も一緒に行けるって」


 カエデはそう言って、得意げに微笑んだ。その笑顔に、ミサキは自分の知らない先輩の一面を垣間見た気がした。


 善応寺は、華蔵寺公園からほど近い、静かな住宅街の中にひっそりと佇んでいた。門をくぐると、苔むした石畳が本堂へと続く。夕暮れの湿った空気に、微かに香木の匂いが混じっていた。どこか厳かで、歴史の重みを感じさせる場所だった。


 本堂で手を合わせた後、カエデの先導で墓所へと向かった。日は傾き、墓石が長い影を落としている。西の空は燃えるような茜色に染まっていた。


「ここです、新井雀里のお墓」


 カエデの声に促され、ミサキは新井雀里の名が刻まれた墓石の前に立った。歴史の教科書に出てくるような偉人の墓を前にしているというのに、妙に現実感がなかった。


 静かに手を合わせ、心の中で将殿の言葉を反芻する。


『織衛という猫を探してほしい』


 ――将殿の願いが叶いますように。


 そう強く念じた、その時だった。


 誰かに見られているような、強い視線を感じた。


 はっと顔を上げて振り返る。


 そこには、一匹の白い猫がいた。


 猫は墓石と墓石の間の細い道から、こちらをじっと見つめている。その澄んだ瞳は、まるでミサキの心の奥底まで見透かしているかのようだった。


「どうしたの、ミサキちゃん?」


 カエデが心配そうに声をかけた。


「いえ、なんでも。ただ、あそこに……」


 ミサキは白い猫から目を離さずに答えた。ノブフサとカエデも、ミサキの視線の先を追う。猫の姿を認めると、カエデはふっと微笑んだ。


 ミサキは、そっと白い猫に近づいていった。


 一歩、また一歩。


 足音を立てないように、慎重に距離を詰める。


 白い猫は逃げるそぶりを見せず、ただじっとミサキを見つめ続けていた。


(……白い猫。右の耳の先だけが、少し黒い)


 将殿から聞いていた特徴と、目の前の猫は完全に一致していた。心臓が大きく高鳴る。


「織衛さん、とお見受けします」


 ミサキは、静かに、しかしはっきりと語りかけた。


「将殿に、あなたを探すよう頼まれて参りました」


 ミサキの言葉に、白い猫はゆっくりと、そしてはっきりと頷いた。




 やっと見つけた。故郷の北海道七飯町から遠く離れた、ここ群馬県伊勢崎の地で、探し求めていた猫にようやく出会えたのだ。ミサキは、雪のように白い毛並みと、右耳の先の小さな黒い斑点を持つ猫を前にして、しばらく言葉を失った。この小さな体のどこに、将殿が探していたすべての謎が隠されているのだろうか。胸の奥に、依頼を達成した達成感と、不思議な縁に触れた感動が同時に込み上げてきた。頭の中を駆け巡る無数の思いを整理するのに、少し時間が必要だった。


 カエデとノブフサは、ミサキが白い猫と対面した瞬間から、静かにその様子を見守ってくれている。何も言わず、ただ隣に寄り添ってくれていることが、今は何よりもありがたかった。先輩たちの協力がなければ、この探索は決して成功しなかっただろう。


 しばらくして、ようやく落ち着きを取り戻したミサキは、ゆっくりと白い猫に語りかけた。


「私、ミサキと言います。北海道の七飯町から来ました。地元の将殿が、織衛さん、あなたを探しています」


 その言葉を聞いた白い猫は、まるで微笑んだかのように見えた。その表情には、どこか懐かしさと微かな寂しさが滲んでいる。


「将殿……。懐かしい名前ね。明治維新の前に、ちかさんが連れて行った、私の幼なじみ……」


「将殿を連れて行ったのは、ちかさんという方なんですね。私たちは、北海道と群馬の不思議なつながりを辿って、ここまで来たんです」


 ミサキが「ちか」の名を口にすると、それまで黙って様子を見ていたノブフサが、不意に口を開いた。


「大野村のちか、か。新井雀里が北海道に連れて行った女性だな。機織りの名人で、大野村に機織所を作ったと、栗本鋤雲が書き残している……」


 一人で呟いているノブフサを横目に、織衛は小さく息をついた。そして、ミサキに向き直ると優しく言った。


「雀里さんは、蝦夷地で蚕を育てる計画を、ここの和尚さんに熱心に語っていたわ。そして、ちかさんが蝦夷地へ行くことになり、彼女が飼っていた子猫も一緒に旅立った。……それが、将殿よ」


 織衛の声は、遠い過去を慈しむかのように静かだった。将殿が生まれたときから織衛と一緒だったのだと知り、ミサキは胸の奥が熱くなるのを感じた。


「将殿は、織衛さんにとても会いたがっています」


 ミサキの言葉に、織衛は再び微笑んだ。


「私も、会いたいわ」


「では、今度私が連れてきます!」


 ミサキは間髪入れずにそう応えた。


「将殿も、あなたが会いたがっていると知れば、きっと喜んで飛んでくるはずです。どうか、しばらく待っていてください」


 気がつけば日は大きく傾き、辺りは黄昏に包まれていた。ミサキたちの影も、白い猫の影も長く伸び、道に黒い線を描いている。


 ミサキの織衛を探す旅は、長く困難なものになるかと思われたが、結果的に一学期が終わる前に結末を迎えた。この夏休みに帰省した際、将殿を連れてくればいい。そう思うと、すっと肩の荷が下りた気がした。


 これも、カエデとノブフサの協力があったからこそだ。二人がいなければ、きっと途中で心が折れていただろう。ミサキは二人に深く感謝し、夕焼けに染まる道を、来た時よりもずっと軽い足取りで笠鷺への帰路についた。

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