第07話(全26話) 八王子へ

 初夏の柔らかな日差しが、ノブフサの運転する軽自動車のフロントガラスを照らしている。中央自動車道を西へ向かう車窓からは、郊外ののどかな風景が次々と流れ去っていく。後部座席に座るミサキは、数日前の稽古終わりの会話を思い出し、胸を弾ませていた。自分のルーツかもしれない場所へ、尊敬する先輩二人が連れて行ってくれる。その事実が、くすぐったいような、それでいて誇らしいような気持ちにさせた。


「八王子って言えば、やっぱり新撰組なんだ」


 ハンドルを握るノブフサが、ぽつりと呟いた。その言葉が、ドライブのBGMになっていた穏やかなラジオの音をすっと遠ざける。


「どうしてです? 浪士組っていうのは関東全域から集まったって、この前先輩が言ってたじゃないですか?」


 助手席のカエデが、好奇心に満ちた目でノブフサに問いかける。道着姿とは違う、ラフな私服に身を包んだカエデは、いつもより少しだけあどけなく見えた。


「新撰組の母体となった浪士組はそうだよ。でも、そこから離脱した芹沢鴨のグループと近藤勇のグループが京都で新撰組を結成したんだ。その中心人物、近藤勇と八王子は縁が深い」

「そもそも近藤勇って何者なんですか? 有名ですけど、実はよく知らなくて」

「いい質問だね。彼は多摩の剣術道場主だ。むかし江戸時代は士農工商と身分制度がはっきりしていた時代だと言われていたけど、現在の研究ではかなりあいまいな部分があったと言われている。近藤なんてその際たるものだよ」


 ノブフサの話は、合気道の技の解説のように理路整然としていて、それでいて熱がこもっている。


「結局なにもの何ですか?」


 カエデが核心を突く。


「身分としては百姓、でも剣術を教えていて、名字を名乗っている。地域社会では武士として扱われていた。彼は養子で、実家は農民だ」


 その言葉に、ミサキは後部座席で身を乗り出した。「八王子千人同心」。自分の曽祖母の、そのまた曽祖母の時代へと繋がるキーワード。


「八王子千人同心について調べてみました。半士半農と書いてありましたけど、どういう意味なんですか?」


 ミサキが口をはさむと、ノブフサはバックミラー越しに優しく微笑んだ。


「半士半農と言うのは文字通り、半分武士で半分農民ということだよ。普段は田畑を耕し、米を作って生計を立てている。そして、ひとたび御用があれば、刀を差して武士として働く。何年かに一度、日光の火之番が回って来て、日光東照宮に詰めていたんだ」


 半分、武士で、半分、農民。ミサキは想像する。土の匂いが染みついた手で鍬を握り、時には同じその手で刀の柄を握りしめる。ひいひいひいおばあちゃんのたやえさんも、そんな父や兄弟の背中を見て育ったのかもしれない。富岡製糸場で働いたという彼女の姿と、半士半農の暮らしが、ミサキの中でゆっくりと重なっていく。


「結局、武士なんですか、農民なんですか?」


 カエデの素朴な疑問が、ミサキの心の内を代弁してくれた。白か黒か、はっきりさせたい気持ち。


 ノブフサは、前方に八王子の市街地を見据えながら、穏やかに言った。


「その境界があいまいで、あいまいなまま実態を捉えようというのが今の研究なんだ。むかしのようにレッテルを張って、無理やりそこに押し込めようとはしていないのさ」


 あいまいなまま、捉える。その言葉が、ミサキの心にすとんと落ちた。武士でもあり、農民でもあった先祖。どちらか一方ではない、その複雑な生き方そのものに、誇りを感じられる気がした。車は八王子インターチェンジを降り、見慣れない街の景色が広がり始める。ミサキにとって、それは単なるドライブではなく、自分の過去へと続く道を辿る旅の始まりだった。




 高速道路を降りて一般道に入ると、車窓を流れる景色は一気に生活感を帯びてきた。ロードサイドのチェーン店、整然と並ぶ住宅、学校に向かう自転車の列。自分のルーツに繋がるかもしれない「八王子」という地名が、フロントガラスの向こうに現実の街として広がっている。後部座席のミサキは、少しだけ高鳴る鼓動を感じながら、運転するノブフサの、シートからはみ出す丸い背中を見つめていた。


「八王子という地名はね、牛頭天王(ごずてんのう)という神格の八人の子ども、八人の王子に由来するんだよ」


 前方の信号が赤に変わり、車がゆっくりと停止する。ノブフサの静かな声が、車内に満ちた穏やかな午後の空気を震わせた。


「神格って何ですか?」

 助手席のカエデが、聞き慣れない言葉に首を傾げる。

「神さまなんだか、仏さまなんだかよくわからない存在なんだ」


 よくわからない存在。ミサキにはその感覚が理解できなかった。神社にいるのが神さまで、お参りする時は二礼二拍手一礼。お寺にいるのが仏さまで、静かに手を合わせる。そのくらいの違いは知っているけれど、「わからない」というのはどういうことだろう。そんなミサキの戸惑いを察したかのように、ノブフサが言葉を続けた。


「一応、仏教的な解釈として、ブッダが教えを説いた祇園精舎の守り神とされている。でも、仏教の経典には出てこないんだ。日本で生まれた、仏教世界の住人、と言ったところかな」

「私、牛頭天王なんて聞いたことないんですけど……」

 カエデが口をはさむ。


「昔は超メジャーで、すごく人気があったんだよ。効果の高い神格でね。特に疫病封じに絶大な御利益があると信じられていた。だから、人が密集して疫病が流行りやすい都市的な空間では、あちこちで祀られていたんだ」

「例えばどこですか?」

 カエデが、まだ少し半信半疑といった口調で尋ねる。


「京都。二人は祇園祭って聞いたことはないかな?」

 ノブフサがバックミラー越しに、いたずらっぽく笑いかける。そのドヤ顔に、ミサキとカエデは顔を見合わせた。祇園祭を知らない日本人なんて、そうはいないだろう。毎年夏になるとニュースで必ず目にする、京都の夏の風物詩だ。


「でも、祇園祭は八坂神社のスサノヲノミコトのお祭りですよね」

 カエデが当然のように言うと、ノブフサは意味ありげに口の端を上げた。

「お祭りの主役は誰だと思う? もちろん、参加する人々だという考えもあるだろうが、誰を祀っているか、も重要なんじゃないかな。そういう意味で言うと、今の京都の祇園祭は、京都の連中が言うほど古いもんじゃない。せいぜい明治時代からのものなんだ」


 その言葉に、ミサキは歴史の教科書には載っていない、不思議な話が始まる予感を感じた。


「明治政府はね、日本人の信仰の世界を、根底からひっくり返したんだ。それまでは神仏習合といって、神さまも仏さまも、それなりに仲良く同じ場所に存在していた。比叡山延暦寺と日枝神社のように、お寺と神社はセットだったし、蔵王権現とか、この牛頭天王とか、神と仏のハイブリッドみたいな、よくわからないけど頼りになる神格もたくさん生まれて、人々に深く信仰されていたんだ」


 ノブフサの声のトーンが少し低くなる。それはまるで、遠い昔に失われた大切なものを悼むかのようだった。


「明治政府は、その寺と神社を無理やり引き裂いた。神仏判然令だ。特に牛頭天王は名指しで否定された。『そんなものは本来の日本の神ではない』ってね。どこにもない、純粋で理想的な古代の姿に戻そうとして」

「政府の看板は『復古』、つまりルネサンスだった。外来の仏教を下に置いて、日本古来の神道を国家の中心に据えようとした。それって、神社にとってはいいことだったと思うだろう?」

「違うんですか? 国家神道って、政府が神道をすごく保護したんじゃないんですか?」

 カエデの問いは、ミサキが考えていたことと全く同じだった。


「たとえ話をしよう」ノブフサはハンドルを切り、細い脇道へと入っていく。「ここに一匹のネコがいるとする。生まれた時からずっと同じ飼い主と仲良く暮らしていた。なのに、ある日突然、その飼い主が追い出されて、全く知らない新しい飼い主がやって来た。『今までの扱い方は間違っていた。これからは私が、国家公認の正しいやり方で君を扱う。前の飼い主より、私の方が社会的地位もずっと高いのだから安心しろ』なんて言われたら、そのネコはどう思うだろう?」


「まぁ……ネコにとっては、すごく嫌なんじゃないでしょうか。飼い主の社会的地位なんて関係ないし、ずっと一緒にいた人がいいに決まってます」

 ミサキが答えると、ノブフサは深く頷いた。


「僕もそう思うよ。そのネコが、当時の神さまたちの立場だ。伊勢神宮では、代々神官を務めてきた藤波氏が追放されて、摂関家の近衛がやってきた。全国に伊勢の信仰を広めて歩いた御師たちの活動も禁止されて、彼らが人々に配っていたお札、大麻(おおぬさ)は政府の財源に組み込まれた。長野の諏訪大社でも、神代の昔から続く諏訪氏や守矢氏といった神官の一族が、みんな神社から追い出された。そのあと釜に座ったのは、政府から派遣された内務官僚や、元公家、元大名たちだ」


 ミサキは神さまの立場で物事を考えたことなんて、一度もなかった。でも、ノブフサのネコのたとえ話を聞くと、その理不尽さが自分のことのように感じられた。ずっと昔から一緒にいた家族と、ある日突然引き離される。それはネコだって、人間だって、きっとたまらなく辛いことだ。神さまだって、同じ気持ちだったのかもしれない。


「この激動期を、古くからの形を保ったまま乗り越えられたのは、出雲大社とか、ごく限られたところだけだと思う」


 ノブフサの言葉に、車内は静まり返った。


「当然、京都の祇園祭もこの大波に揉まれた。もともと『牛頭天王』を祀る『祇園社』の祭礼だった『祇園御霊会』は、政府の命令で、『スサノヲノミコト』を祀る『八坂神社』の祭礼である『祇園祭』に変わったんだ。神仏習合牛頭天王とスサノヲは同一とされていたからね」

「じゃあ、日本各地にある他の祇園祭はどうなんですか? 大分の日田とか、有名ですよね」

「そうだね。三大祇園祭の一つだ。さっき言ったように、牛頭天王は疫病封じの神さまだから、江戸時代の城下町とか町場で広く信仰されてきた。今のお祭りは宗教的な意味合いが薄れているけど、日本中の夏祭りの多くは、そのルーツを辿っていくと、牛頭天王に行き着くはずだよ。みんなが知らないだけで、牛頭天王は、俺たちのすぐ身近にいた神格なんだ」

 ノブフサの話は続く。

「明治になって、牛頭天王を祀っていた天王社や祇園社は、八坂神社、八雲神社、進雄(すさのお)神社なんて名前に変えながら、今も残っている。明治四〇年の合祀で姿を消した神社も多いけど、非合法的に、人々がこっそりと祀られ続けた牛頭天王も多いみたいだよ」


「で、そんな身近で人気のある神格だから、二次創作的にいろんなエピソードが生えてきて、八人もの子どもを持つことになった。その子どもたちを祀っているのが八王子神社。八王子の名の由来となった場所だよ。はい、着いた」


 ノブフサがそう言って、木々に囲まれた静かな駐車場に車を止めた。エンジンが切れ、車内を満たしていたかすかな振動が止まる。代わりに、窓の外から蝉の声と涼やかな風の音が流れ込んできた。目の前には、古びた石の鳥居が静かに佇んでいる。ここが、あの複雑で、少し哀しい歴史を持つ神さまの子どもたちが眠る場所。ミサキは、ゆっくりとドアを開けた。




 八王子神社の境内は、午後の日差しが木々の葉を透かし、地面に穏やかなまだら模様を描いていた。拝殿のそばで日向ぼっこをしていた数匹の猫たちに、ミサキは真剣な眼差しで話しかけていた。その姿を、カエデは面白そうに、ノブフサは温かく見守っている。


「このあたりに、織衛(おりえ)さんという名前の猫はいませんか?」

 ミサキの問いに、茶トラの猫があくびを一つして「知らないなぁ」とでも言うように顔を背ける。

「じゃ、将殿(しょうどの)という名前には?」

「知らないなぁ」と、今度は三毛猫が尻尾をぱたりと振った。

「人間の話なんですが、和泉(いずみ)という名字に聞き覚えはありませんか?」

 猫たちはただ、気持ちよさそうに目を細めるばかりだった。その健気なまでの問いかけに、ノブフサが助け舟を出す。


「ミサキちゃん。君のご先祖の和泉やえさんの父、善太郎さんは秋山家から和泉家に養子に入っているんだ。秋山についても聞いてみなよ」

 その言葉は、まるで閉ざされた扉の鍵を手渡されたかのようだった。ミサキは頷き、再び猫たちに向き直る。


「秋山、という名前に心当たりは?」


 その瞬間、それまで無関心そうにしていた年嵩な黒猫が、すっと瞼を開いた。琥珀色の瞳が、じっとミサキを見つめる。

「秋山は知っている。千人同心だ。確か一族が蝦夷地に二回も行ってるはずだ。二回目のときは、向こうで蚕を飼うとか言って、ついてった仲間もいたな。だが、そんな中に将殿とか織衛なんてのはいなかったはずだ」


 淡々とした、しかし確かな情報。ミサキは息をのんだ。自分のルーツの断片が、こんな不思議な形で手に入るとは。一行は深く頭を下げ、言葉を解する賢い猫に礼を告げて、静かな神社を後にした。


 次に三人が訪れたのは、市立の郷土資料館だった。ひんやりとした館内には他に誰もおらず、ミサキたちの足音だけが静かに響く。ガラスケースに収められた古文書や甲冑を前に、ノブフサのプライベート解説が始まった。


「戦国時代、ここは北条氏の重要拠点だったんだ。甲州街道、つまり山梨県に抜けるルートを押さえる要衝でね。現在でも高速道路で良く渋滞する、交通量の多い箇所。江戸時代には山梨、甲斐まで幕府の直接支配下にあったけど、もし甲斐を抜かれたら江戸が危うい。そこで大久保長安がここに千人同心を置いたんだ


 ノブフサの声は、普段より抑えられているはずなのに、静かな空間によく通る。


「大久保長安はね、伊奈忠次とともに徳川家康の財政を支えたんだ。誰が家康の天下取りに一番貢献したか? なんていうのは好事家の好物だ。多くの人は本多だの井伊だのなんていう武将の名を挙げ、ちょっとひねくれたのは黒田・藤堂なんていう家康に協力した外様を挙げる。かなりひねくれた者は石田とか直江を挙げるだろう」


 ノブフサは二人の反応を見ることもなく続ける。


「でも僕は漢の高祖が蕭何を功績一位に挙げたように、家康の天下取りの最大の功績は、家康の軍事行動を支え続けた大久保長安・伊奈忠次だと考えているんだ」


 彼の歴史語りは、教科書とは違う、生きた熱を帯びている。


「長安はもともと武田信玄に仕えた能役者で、家康に仕えてからは佐渡金山や石見銀山の開発、農政、外交までこなしたテクノクラートだ。彼は八王子を拠点に全国を飛び回り、この街の基礎をデザインした。そして、ここに信玄の娘を住まわせ、主君を失った武田の遺臣たちを、半士半農の千人同心として配置したんだ」


 ミサキは展示されている古い地図に目を落とす。ノブフサの言葉が、インクの染みでしかない地名や道に、血の通った物語を与えていく。


「時代が下ると、裕福な農民が身分上昇、ステータスを上げるために千人同心の株を買うようにもなるんだけどね」


 知らない単語も多い。けれど、こうして解説してくれる人がいると、ガラスの向こうの遺物が、急に身近なものに感じられた。


「江戸も中後期になると、この辺りは生糸の一大生産地になる。農家は畑仕事の傍ら、蚕を飼うようになったんだ。蚕の餌は桑の葉だ。だから八王子は『桑都(そうと)』とも呼ばれるようになった」


 桑都。その響きに、ミサキははっとした。富岡製糸場のたやえさん。蝦夷地で蚕を飼ったという秋山一族。点と点だった情報が、一つの線で結ばれていく。


「日本が非西洋国で唯一、近代化に成功した理由の一つは、外国に売れるものがあったからだ。それが生糸さ。今も走っている八高線という鉄道路線はね、上州の高崎とここ八王子を結んで、横浜港まで生糸を運ぶための、当時の外貨獲得の大動脈だったんだよ」


 ノブフサが指さす窓の外を、偶然にも八高線の電車が通り過ぎていった。あの鉄の塊が、かつては自分の先祖たちが育てた蚕の糸を運んでいたのかもしれない。ミサキは、ガラスケースの中に、遠い先祖たちの息吹を感じた気がした。




 資料館を出たあと、三人は喫茶店で休憩を取ることにした。

 ミサキとカエデはパフェを、ノブフサはコーヒーを注文した。


「このあたりで新撰組が生まれたって言ってましたけど、どういうことなんですか?」


 ミサキがスプーンの動きを止めることなくノブフサに話しかけた。もうノブフサの扱い方を理解したようだった。ノブフサは、カップから顔を上げてにやりと笑った。


「近藤勇、土方歳三らの剣術は天然理心流と言って、ここらで盛んだったんだ。近藤の系譜上では祖父に当たる人物は千人同心出身だし、新撰組には井上とか千人同心出身者がいる」


「千人同心は半士半農だからわかるとして、その他に剣術なんて習う人がいるんですか?」


 ミサキの問いに、ノブフサはさらに笑みを深めた。いやな目だった。丸々とした体型から普段は可愛げさえあるのに、時々人を試すような眼つきになる。


「いい質問だね、ミサキ君。ところで、学校を英語でなんて言うか知ってるかね?」


「スクールじゃないんですか?」


 ミサキが口を尖らせるように言うと、ノブフサは満足げに頷いた。


「その通り。そしてその語源はギリシア語の『スコラ』に由来する。その意味は『余暇』だ。つまり、人は暇になると勉強するようになるんだ」


 ミサキにはよくわからなかった。勉強する合間に「余暇」がある生活をずっと続けてきたからだ。


「僕たちはずっと勉強することを強いられてきた。勉強という熟語自体、『強いて勉める』からできている。でもそれって現代日本だけの常識で、他の地域、あるいは他の時代では非常識なんだ」


 ノブフサはカエデの方を向いて尋ねた。


「和算の大家」


「関孝和(せきこうわ)」


 カエデが間髪入れずに答える。


「そう、関孝和(せきたかかず)。彼のやってた和算、日本の数学というのは、実用的なものではなく、趣味の世界のものなんだ。江戸時代は豊かな時代で、余暇に学問をしてたんだ。国学なんかもそうだ。その中に剣術もあった」


 ノブフサはさらに続けた。


「そういう背景の中で、八王子の隣の日野の佐藤家、土方歳三の親戚なんだが、彼なんか道場主の近藤や弟子をまねいて剣術修行をしたりするし、近藤勇は農民の子だったのが剣術の才能を見込まれて、道場主の所に養子に入ったりする」


「それで、武士のいない所でも剣術が盛んだったんですね」


 ノブフサの言葉に、ミサキは大きく頷いた。それまでバラバラだった知識のピースが、パチリと音を立ててはまり込む感覚。武士ではない人たちが、どうしてあれほど剣術に熱中していたのか。そして、武士のいなかったこの土地から、近藤や土方といった才能が育ったのか。全てが『余暇』という一つの線で繋がった。



 喫茶店での長い休憩を終え、一行は再び歩き出した。向かうは、町の中心にある八幡八雲神社。この神社は八幡神と、もともとは牛頭天王と言った神さまが祀られている。朱塗りの鳥居をくぐると、境内はひっそりとしていて、神社の持つ厳かな空気に包まれた。


「ここは八王子の鎮守様なんだ。きっとミサキの先祖も、何度もここでお参りしたんだろうね」


 ノブフサの言葉に、ミサキは胸が熱くなった。遠い祖先が同じ場所で、同じ空気を吸っていたかもしれないと思うと、ただの観光地ではない、特別な場所のように感じられた。


 静かに手を合わせ、目を閉じる。夏休みに実家に帰ったら、歴史好きの叔父に色々と聞いてみよう。そうすれば、先祖がどんな思いでこの場所に来ていたのか、もっとわかるかもしれない。


 参拝を終え、社務所の脇に目をやると、数匹の猫たちが日向ぼっこをしていた。近づくと、一匹の三毛猫がゆったりと身体を起こし、大きなあくびをする。


「ねえ、もしかして織衛さんのこと知らない?」


 ミサキが恐る恐る尋ねると、三毛猫は怪訝そうに首を傾げた。


「織衛? そりゃ知らねえなあ。うちのジジイが生まれる前の話じゃねえか」


 やっぱり手がかりはないか…。そう思ったミサキが、諦め半分で「和泉善太郎の子孫なんですけど…」と付け加えると、三毛猫の目がキッと細められた。


「和泉善太郎…! 懐かしい名前だ。わしは粟沢という男の家に厄介になっていたことがある。その粟沢が、蝦夷地から戻ってきて、和泉の話をようしとった。蝦夷地で機織りをするって言ってな。あの時の話は忘れられん」


 三毛猫は、遠い昔を思い出すように目を細める。


「しかし、そっから先は知らねえ。もしかしたら、もっと詳しいやつがいるかもしれねえが…」


 三毛猫はそれ以上何も教えてくれなかったが、ミサキの心はざわめいていた。蝦夷地、機織り…。たった二つの言葉だが、確かに祖先の足跡を感じられた。八王子まで来た甲斐はあった。静かな感動を胸に、ミサキはまた一歩、先祖の歴史に近づいたような気がした。夏休みが、待ち遠しくなる。

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