第12話 霧ヶ峰からの手紙

台所シリーズ 第3部 「台所がせかいをかえる」 妙蓮寺

第12話(第3部最終話)


 霧ヶ峰からの手紙


飛行機を降り、千歳から栗丘へ向かう道。

響く音楽と、空の色の記憶を胸に、響香はゆっくりと日常へ戻ろうとしていた。


この日、日本列島は寒冷前線の猛威に覆われていた。

白く凍てついた道を、車は滑るように走る。


哲郎のもとに、一通のメールが届く。

差出人は──“霧ヶ峰”。


「岩見沢」と書かれた青い標識をくぐったときだった。

運転する哲郎に代わり、響香がスマホをタップする。


「室温、28度です」

霧ヶ峰は、エアコンの名前だった。


青い標識の先には、ほんのり温かく、ちょうどいい部屋が待っている。


古の北国の誰もが夢見た「帰宅すれば温かい部屋」。

その願いが、いつの間にか叶っていたことに、響香はおどろいた。


北海道に住むと決めたとき、冷房など考えもしなかった。

夏の夜、窓から入り込むひんやりとした風が、一日を静かに締めくくる。

その涼しさこそ、この地を選んだ誇りだった。


だから響香は長く、エアコンを──温暖化の一因にすぎないと拒んできた。


けれど、汗にまみれた孫を見た娘が言った。

「気づかないうちに日射病で倒れてしまったら、遅いよ」


その一言で、響香は持論をそっと引き出しにしまい、哲郎と共にエアコン探しを始めた。


滑稽なことに、取り付けが終わったのは秋風の吹く十月半ば。

デビューは冷房ではなく、暖房だった。


留守中でも室温がわかり、遠隔操作できるこのエアコン。


車は栗山の丘を抜け、「BLUE ROSE FIELD」と書かれた、かまぼこ型の建物を横切った。


千歳へ向かう3日前の朝、響香は哲郎に尋ねた。

「ブルーローズ・フィールドって、何だろう?」


哲郎は少し考えてから、口を開く。

「ブルーローズ、青いバラは不可能の象徴だった……。

 だから、“不可能への挑戦”ってことかな」


そして、たしか、こう続けた。

「もう、青いバラはあるから、不可能をやってのけた、ってことだな」


夕陽ヶ台のバス停を過ぎると、一車線が二車線へと広がり、

冬の空が果てしなくひらけていく。

数台の車のヘッドライトが、広大な街の明かりを支えていた。


玄関を開けると、こゆきが待っていた。

哲郎に真っ先に駆け寄り、つぶらな瞳で見上げる。

「ただいま」


シンクの水道レバーを上げると、冷たい水が瞬く間に皿を満たしていく。

ちょろちょろ──その音の奥に、妙蓮寺の井戸が響かせる、遠い水音が重なった。


皿の底には、響香が紡いできた百年、いや二百年の水の物語が映っている。

それは、きっと、あの井戸端会議から始まった物語。


コユキは鼻先を近づけ、ペロペロと水を飲んだ。


……明日は、伸子さんに電話しよう。

妙蓮寺の井戸の水音が、今も変わらず響いていることを伝えよう。


この岩見沢の我が家は、きっと百年前の「ブルーローズ・フィールド」と同じだ。

そう感じながら、響香は台所に立った。


足元には妙蓮寺の水が流れ、

その水脈をたどれば、遠い昔へとつながっていく。

そして、この台所はきっと、未来のどこかの台所へともつながっていく。


過去と、未来をつなぐ台所。

それに気づくとき、あの時の水の音を聴くだろう。


──台所が、世界をゆっくりとつなぎはじめていた。

まるで、青いバラが花開くように。

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「台所がせかいをかえる」 (台所シリーズ 第3部 妙蓮寺編) 朧月(おぼろづき) @koyumama0926

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