第8話 実家の本棚 ㊙️の記憶

台所シリーズ 第3部 「台所がせかいをかえる」妙蓮寺―― 第8話


「実家の本棚 ㊙の記憶」

実家に戻った翌朝、響香は奥の和室へと足を運んだ。

久しぶりに、本棚の前に立つ。

掘りごたつを組み込んだその和室は、かつては客間だった。

いまでは座卓に非常食や水のボトルが丁寧に積まれ、納戸のように使われている。

床の間の近くの、畳に手が届きそうなほど低い棚には、博多人形や、針の止まったままの時計が並び、障子越しの淡い光を静かに浴びていた。


その光景は、時間をゆっくり溶かすように、昔の記憶を揺らした。

障子の白さに目を細めると、この家に引っ越してきた日の情景が、まるで昨日のことのように浮かんできた。


引っ越したのは、響香が小学六年生のときだった。

妙蓮寺ニューキャッスルの一室を手放し、ローンを組んで両親が手に入れたこの家。

「横浜」といっても、港からは一番遠い場所だった。


もう築50年にはなるけれど、意外にしっかりしている。

当時、「リビングは広く。窓は大きく」と父。

「I型の長いキッチンがいい」と母。


今ではありがちな間取りだけれど、50年前の営業マン・大堀さんには、どうやら手間のかかる注文だったようだ。

「応接間、いらないんですか?」

「これだけ大きな窓にすると、梁を特別に入れないと審査が下りません」


二流企業の企業戦士だった父と、パート勤めの母。

要望は多く、予算は少ない。


どれも譲れず、最後に削ったのは——階段の一段だった。

その分、一段一段の高さが、つま先がわずかに引っかかるほど増した。


ほんのわずかな差。

その段差が、十年後、致命傷になるとは思わなかった。


「お父さんが、二階から降りられなくなった」

あの電話から、父の闘病と母の看病が始まった。


25年前の手術よりも前から、父はずっと薬を飲んでいたけれど、病気と“戦って”いたわけではない。

うまくつき合っていた。

綱渡りのような時期もあったけれど、それでも日々を歩いていた。


もし、あの階段の一段があれば——

もう少し、病気と“戦わずに”つき合えたかもしれない。

二階に上がれなくなってからも、「家ですごしたい」と言って自主退院し、最後まで自宅にいた。

それでも、きっと父はこう言うだろう。


空の上から、ポツリと、誇らしそうに。

「いい間取りだろう」と。


かつて本棚には、世界の文学全集がずらりと並んでいた。


今はもうそれらはなく、代わりに並んでいるのは、樹木希林さんの本や、母が「残したい」と思った数冊だけだった。


響香が希林さんの本を開くと、付箋が貼られたページが目に入った。


その言葉を見た瞬間、思わず涙腺が熱くなり、「やばい」とつぶや。

いた。

この本たちを一冊ずつ丁寧に読み返せば、母が費やした断捨離の時間をまた繰り返すことになる。


そして結局は、同じ棚に戻すことになるだろう——そう思い、響香は視線を他の本へと逸らした。



3

ふと本棚の上の六花の箱が目に入った。あの馴染みのお菓子の箱で、上に「写真」って書いた紙が貼ってある。

若い頃の父がラクダに乗っている写真――それを思い出した。箱を下ろして蓋を開けると、なんとなく悪いことをするわけじゃないのに息をひそめてしまった。

蓋の向こうには整然と積まれた写真の束。胸がぎゅっと熱くなって、つい「これも、やばい」と口に出してしまう。中をできるだけ乱さないように、慎重に写真を探した。


「パパ」と書かれたフォルダを開く。

けれど、ラクダの写真はなかった。


ファイルとファイルの間に、一通の白い封筒が挟まっていた。


「㊙️ 非公開」と書かれている。


おそるおそる開けると、中には一枚の写真——

野原に並ぶ数十人の子どもたちの中に、幼い頃の母が写っていた。


白黒のセピア色の写真なのに、母のセーターだけは不思議と「赤い」と感じた。

大きくも、小さくもないセーター。たぶん、おさがりだ。

それでも、どこか鮮やかに見えた。


母のそばには、叔父と思われる少年がふたり。

彼らのズボンにはさまざまな模様が入り、一時期ユニクロで見かけたデザインを思い出した。


——でも、この写真のどこが「非公開」なのだろう?

この幼子の輪の中に、隠しておきたい誰かでもいるのだろうか。


響香は写真をじっと見つめた。

迷いながらも部屋を出て、母に尋ねた。


重々しく語り出すかと思いきや、母は意外とあっさりと言った。


「あんな……浮浪児みたいな写真、人に見せられないよ」


その言葉を聞いた瞬間、響香の頭にふと浮かんだのは、アラビア語のレシピに記された「㊙️」の文字だった。


写真の記憶と重なるように、あの日のことを思い出した。

秋、伸子とランチをしたときのこと──


「旅していた頃の話、あとで聞かせてね」と言ったのは響香だったのに——

スマホに保存されていた画像を取り出した瞬間から、話は伸子の旅の思い出ではなく、アラビア語の渦に引き込まれていった。


「たぶん、これ、料理のレシピよ」

スマホをのぞき込みながら、伸子は翻訳アプリを開いた。

反転して読みにくいひらがなの下に、確かに料理名らしき単語が浮かび上がった。


そのレシピのすみのほうに、見覚えのあるサインがあった。

響香の父の名前。そして、日付。

その下には、ひらがなを覚えたての子どものような文字で「きょうかKYOKA」と読めた。


伸子も、弟も、それは響香の美しい父との一ページと確信したのだ。


「㊙️」の文字は、何かを隠すためではなく、忘れたくなかった記憶のしるしだったのかもしれない。

響香だけが、その日の記憶が全くなく、府に落ちなかった。

けれどなぜか、若き日の父に会えたような気がした。


——母の赤いセーターの写真と、アラビアのレシピ。

「見せられない」と言った母の過去と、「きょうか」と書かれた未来への小さな願い。


レシピにあったマグルーバ、カタールの料理——

それは今、素敵な郷土料理だが、かつてそれは、現地の人々にとって“貧しさ”の象徴だったのかもしれない。


若き日の父が、どこかアラビアの地で、現地の料理を教わる姿が心に浮かぶ。


——「㊙️」に込められた意味。

母の写真と、アラビアのレシピ。

そのふたつが、響香の中で静かに、確かにつながっていく。

 

第8話 おしまい   第9話 羽田で につづく











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