第9話 羽田で
台所シリーズ「台所がせかいをかえる」妙蓮寺 第9話 羽田で
くもりガラスの自動シャッターがすべるように開く。
向こうに並ぶ受付嬢の完璧な微笑みと抑えられた照明。
特別感が漂うこの場所。
着ている服はなんら変わらないのに、ざわつきが遠のき足音まで変わる。
羽田空港のラウンジは、その瞬間から別世界に変わる。
ゆったりとした席を探しながら、窓の外に目をやる。
空へと舞い上がる飛行機が、また視界に飛び込んできた。
機体がぐんぐん小さくなって上空へ向かうたびに、遠くにいる大切な人に近づけるような気がしてくる。
父の闘病中のこと――。たまプラーザ駅でパンを買い、バスに揺られて一時間。羽田に着く。
この異空間のラウンジで、そっとビニールのテープをはがし、パンを食べながら、北海道へ戻る飛行機を待った。
寄り道したくなる日もあった。
けれど、父がリビングにベッドを移してからは、この場所で青汁を飲みながら、静かに自分だけの“非日常”を味わうだけにしていた。
横浜と北海道、その間にある架け橋のような時間。
この椅子ひとつで、十分だった。
目の前で飛び立つ飛行機を見下ろすこの空間で――
私は心の奥にいる大切な人と静かに向き合う。
今日は哲郎が隣にいる。
けれど、気づかれないように、そっと、心の中のその人と語り合う。
「四間道の石碑の横に映る、あなたの影がなければ——
今の私は、ここにいなかったと思う。
若い父にも、出会えなかった。
だから、心から感謝しているの。伸子さん。」
すると、不意に伸子さんが尋ねてきたような気がした。
「今、どこで話しているの?」
私は少し笑って、「羽田よ」と心の中で答える。
ラウンジの入り口で手に取ったのは、『ディスカバリーJAPAN』。
表紙には、伸子さんの町――エスコンフィールドの特集。
まるで彼女が、そっと手渡してくれたみたいだった。
テーマは、「これからの日本の町づくり」。
鳥や蝶のために植えられる木々の話から、試合がない日でも足を運びたくなるスタジアムの特集へ。
グリーンインフラ、2027年国際園芸博覧会。農業学習施設、
そして「5本の樹計画」。
そのひとつひとつに、なぜか伸子さんの姿が重なる。
エスコンフィールドの庭園ボランティアに、誰よりも早く申し込んだ伸子さん。
「春になったら、花人クラブの親睦会、エスコンでやろう」あの日から、私たちは、未来の風景に心を寄せ、同じ季節を歩んできた気がする。
また、目の前の飛行機が空へと向かっていく。
今度は、かばんから、冊子を取り出す。
それは、実家の本棚の隙間にひっそり挟まれていた、父の同窓会誌。
薄緑の「ああ青春の」昭和28年卒業生とある表紙を開けて、父の名前を再び探した。そこには、若き父が綴った「アラビアの旅」。
『大人になったらアラビアに行く。——おとぎの国、アラビア。
川は、想像もしていない昔から、ゆっくりと流れているのでしょう。
でも、私の頭には、三十年前の教壇に立つ背のひくい釜口先生が、
長い物干しのような竹の棒を持って説明される様が思い出されるのです。
最近では、アラビアは石油という富に恵まれたというより、遭遇したと言っていいかもしれません。
その資金で新しいプロジェクトが進められています。
先生に人民地理を教えてもらっている頃、砂漠の民はオアシスを求めて遊牧の生活をしていたと思います。
今は石油資金で淡水化装置を日本より輸入し、海水から飲み水を得ています。
オアシスを求める必要がなくなり、定住化しつつあります。
ここにも地理と歴史の流れを見ることができます。(中略)
夜のバクダッドの町の暗いネオンの階段を降りていくと、
夢に見たアラビアンナイトの絵図に近いものを見ることができました。
(中略)私は幼い頃の夢の全てを叶えることができたのです。
——昭和五十八年 上野十猪』
読み終えると、父の足跡と、その背景に広がる地理と歴史の流れが、目の前に鮮やかに立ち上がった。
釜口先生の声も、夜のバグダッドの空気もこの羽田のラウンジにいる人々に、重なっていく。
父はその同窓会誌で
「子供らには、せめて地理だけは教えてやりたい。」とも記していた。
けれど私は、父から地理を教わった記憶がない。
「父は、響香の勉強をいつも見ていたよ」と母は言うけれど、父に教わったの高校3年の夏が初めてだった。。
微分積分がどうしてもわからなくて、はじめて——仕事帰りの父に聞いた。
すると、父は最後まで寝ずに付き合ってくれた。
あとになって聞いた。
その後も父は、満員電車の中で微分積分を勉強していたという。
あの夏が鮮明だから、母は「いつも」というのだろう。
——だから、あのレシピの上にあったひらがなは、父に教わったものじゃない。
「伸子さん。私が書いたものではない気がするの。」
机を並べた父が、今、飛行機に乗って空へ舞い上がっていったように思えた。
今日はエアドゥの便が遅れている。
それでも私は、空に向かって飛び立つ準備ができている。
伸子さん。
一緒には来られなかったけれど、次はきっと、同じ飛行機に乗れそうな気がする。
……そんなことを考えているうちに、いつの間にか哲郎のあとをついてエスカレーターを降りていた。
55番ゲート。搭乗開始を告げるアナウンスが静かに流れる。
列に並び、スマホを入口にかざす。
「ぴっ。」
小さな胸の位置の扉がひらく。
空が少しずつ近づいてきていた。
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