​第十五話 戴冠の言霊、静寂の勅令

 ​全ての音が死んだかのような、絶対的な静寂。鬼の怒声も、魔女の狂笑も、空間が砕ける轟音さえも、たった一言の言霊によって、その存在を許されなかった。


 戦場にいた全ての者は、見えざる神の手によって、その魂を直接押さえつけられたかのように、身動き一つ取れずにいた。


 ​黄金の光に包まれた桜子が、ゆっくりと、砕けたアリーナの中心へと降り立つ。もはや、彼女の足は地についていない。浮遊している彼女の周囲を、吸収した幾千もの『物語』が、淡い光を放つ文字の渦となって、守護するように旋回していた。​その黄金の龍の瞳が、まず、混沌の元凶を捉えた。


​「——西洋の魔女よ」


 ​その声は、桜子のものであり、また、幾万もの妖怪たちの声が重なった合唱でもあった。


「お主の望む混沌は、目的のない嵐。ただ破壊し、喰らうだけで、何も生まれぬ。その虚しき渇望が、この地に根を下ろすことは、許さぬ」


 ​桜子の、いや、新たな『王』と化した彼女の言葉は、世界の法則そのものに働きかける。


 ババ・ヤーガがこじ開けた【混沌の門】が、ギチギチと悲鳴を上げ、その扉を強制的に閉じ始めた。ティンダロスの猟犬が、主の命令に背くその力に、唸り声を上げる。


​「小娘が……! 我が混沌を、否定するかァ!」


 ババ・ヤーガが怒りに叫ぶが、その声さえも、王の威光の前では虚しく響くだけだった。


 ​次に、王の視線は、この茶番のもう一人の主催者へと向けられる。


​「——ぬらりひょんよ」


 ​ぬらりひょんは、ただ静かに、自らが望んだ『王』の姿を見つめていた。その表情に、焦りはない。だが、勝利の確信もまた、消え失せていた。


​「お主は、古きが滅びることを恐れた。故に、新たな王を『器』に押し込め、意のままに操ろうとした。だが、王とは、誰かに作られるものではない。時代の渇望に応え、自ら立つ者のこと。その秩序は、支配欲に塗れた、偽りの安寧に過ぎぬ」


 ​王は、ぬらりひょんの計画の全てを見抜き、そして、それを静かに否定した。


 ぬらりひょんの口元から、初めて、笑みが消えた。


 ​そして、最後に。王の瞳が、怒りと悲しみに震え、ただ一人、彼女へと手を伸ばそうとしている鬼を、優しく見つめた。


​「——酒呑童子」


 幾重にも重なっていた声の奥から、はっきりと、桜子自身の声が、彼にだけ届いた。


「あなたの怒りは、愛と喪失から生まれた、この戦場で最も純粋な力。でも、その炎は、いつかあなた自身と、あなたが守りたいものまで、焼き尽くしてしまう」


​「……桜子……なのか……?」


 鬼の王が、戸惑いの声を漏らす。その一瞬の呼びかけに、王は静かに首を振った。


​「この『百鬼闘諍』という名の、老いた者たちの戯れは、これにて終いとする」


 ​王が、片手を天に掲げる。

 

​「聞きなさい。全ての、忘れられし者たちよ」


 崩壊していたはずの異界が、その法則を取り戻し始めた。


「争いは終わり、門は閉じる。各々は、その居場所へと還れ」


 その言葉に呼応するように、砕けた月は再びその姿を繋ぎ合わせ、裂けた大地は静かに癒えていく。


「だが、この『朧月夜の宴』は、今後、永遠にこの狭間に存在し続ける。戦場としてではない。日本の者も、世界の者も、全ての怪異が、その身分を問われることなく集える、新たなる『都』として、ここに築く」


 ​それは、誰もが予想しなかった、あまりにラディカルな勅令。勝敗も、覇権も、支配もない。ただ、新たな時代の、新たな共存の形。


​「……ふざけるなァッ!」


 最初に、その静寂を破ったのは、ババ・ヤーガだった。


聖域サンクチュアリだと? 馴れ合いの安寧など、我が混沌が許すものか! 喰らえ、我が猟犬よ!」


 ​王の勅令を破り、ティンダロスの猟犬が、時空の角度を歪ませながら、王へと襲いかかる。


 だが、王は動じない。彼女がただ、その凶刃を見つめると、彼女自身の影が、むくりと起き上がった。影は、人の形をとる。光も闇も映さぬ、完全な『無』でできた、一人の武人のシルエット。それは、王が吸収した全ての物語の中から、最も理想的な『英雄』の概念だけを抜き出し、具現化させた守護者。


 ​影の英雄は、ティンダロスの猟犬が放った、因果律さえ切り裂く爪を、いとも容易く、その指先でつまんで、止めた。


​「——我が勅令は、この世界の絶対法則」


 ​王の声に、初めて、冷たい圧がこもる。


​「これに背く者は、世界の理そのものに背くことと同義。——これが、最初で、最後の警告である」


 盤上は、完全に支配された。


 駒たちは、今、選択を迫られる。この、新たに生まれた王が示す「新世界」に従うか。あるいは、絶対的な法則に逆らい、塵となって消え去るか。

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