​第十四話 鬼の慟哭、王の誕生

「オオオオオオオオオオオッ!!」


 ​それは、愛する者を再び奪われることへの、鬼の魂からの慟哭。酒呑童子の全身から噴き出した煉獄の妖気は、彼に触れようとした混沌の眷属たちを、その余波だけで蒸発させていく。彼の瞳は、桜子を「器」として弄んだ、老獪なる総大将——ぬらりひょんの姿だけを、万感の殺意と共に捉えていた。


​「よくも……よくも……!」


 ​憎悪に燃える鬼が、味方の王へと牙を剥く。


 だが、ぬらりひょんの前には、新たな影が二つ、立ちはだかった。


 一人は、全身が水でできているかのような、巨大な黒い法師。日本の海を支配するという、海坊主うみぼうず


 もう一人は、牛の頭を持つ、地獄の獄卒。牛頭ごず


 彼らは、ぬらりひょんの掲げる「新たな秩序」に心酔する、忠実なる臣下だった。


​「退け、鬼よ。貴様の私情で、大御所様の悲願を邪魔することは許さぬ」


 海坊主が、津波のような水の腕で、酒呑童子の行く手を阻む。


​「……退かねぇなら、てめぇらから、殺す」


 酒呑童子の拳が、水の腕を蒸発させ、牛頭の巨体を吹き飛ばす。だが、そのわずかな時間でさえ、桜子へと注がれるエネルギーの奔流は、勢いを増していく。


​「あああああっ!」


 桜子の意識が、膨大な情報と力に呑み込まれていく。歴代の日本の妖怪たちが紡いできた、数千年の『物語』。喜び、悲しみ、怒り、そして無念。その全てが、彼女の魂を塗り替え、新たな存在へと作り変えようとしていた。


​「——今だ! あの光を断つぞ!」


 ​その、混沌の戦場で、第三の勢力が動いた。大天狗は、この狂った状況の元凶が、桜子という「器」の存在そのものであると判断。彼女を解放することが、双方の王の目論見を砕く、唯一の道だと考えたのだ。


 巫女である小夜を背に庇い、破魔の神風を巻き起こしながら、桜子を縛る光の奔流へと突貫する。


​「おのれ、天狗め! 貴様も我らに逆らうか!」


 ぬらりひょんの臣下たちが、大天狗にも襲いかかる。


「黙れ! 貴様らの王も、西洋の魔女も、やっていることは同じ! 己が野望のために、世界を玩具にする、ただの独裁者よ!」


 大天狗の剣が、秩序を乱す者たちを、敵味方の区別なく斬り伏せていく。​戦場は、混沌を極めていた。


 【混沌の門】を開こうとする、ババ・ヤーガ。


 【新たな王】を創ろうとする、ぬらりひょんと、その臣下たち。


 ただ一人を守るため、全てを破壊しようとする、酒呑童子。


 戦場に秩序を取り戻すため、その中心を断とうとする、大天狗。


 ​それぞれの正義と野望が入り乱れ、収拾のつかない乱戦へと発展していく。高みの見物を決めていた玉藻前が、眉をひそめた。


(……これは、いささか、やり過ぎましたわね。どの王も、駒の心を読み違えている)


 ​そして、誰もが目の前の戦いに没頭していた、その時。ババ・ヤーガが守る【混沌の門】の奥から、これまでとは比較にならない、絶望的な圧を放つ「何か」が、ゆっくりとその姿を現し始めた。


 それは、幾何学的な角度で構成された、犬のような、しかし、この世のいかなる生物とも似ていない、冒涜的な存在だった。


​「——ティンダロスの猟犬……!」


 白澤が、その正体に気づき、戦慄する。時間と空間の「角度」に潜み、獲物の魂を永遠に追い続けるという、宇宙的恐怖。


 ​世界の終焉を告げる猟犬が、その猟場へと降り立とうとした、まさに、その瞬間だった。​金色の光の中心で、苦し悶えていた桜子の動きが、ピタリ、と止まった。


 彼女の瞳が、ゆっくりと開かれる。だが、その色は、もはや彼女のものではなかった。八百万の妖怪たちの『物語』をその身に宿し、神々さえも凌駕する、絶対的な王者の証——黄金色の、龍の瞳。


 ​そして、その唇から、声が響いた。それは、桜子のものでありながら、幾千幾万もの妖怪たちの声が重なった、神々しいまでの合唱。それは、この狂った戦場にいる、全ての者の魂に、直接、命令を下した。


​「——静まれ」


 ​たった、四文字。


 しかし、その言霊には、逆らうことのできない、絶対の強制力が宿っていた。​鬼の怒りも、天狗の誇りも、混沌の衝動も、全ての動きが、凍りついたかのように停止する。ティンダロスの猟犬でさえ、その異質な動きを止め、黄金の瞳を警戒するように見つめた。


 ​『器』は、満たされた。


 日本妖怪の新たな『王』が、今、この混沌の只中で、産声を上げたのだ。

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