第三話 鬼の追憶、狐の誘惑

 ​「決着ゥゥゥッ! 初戦は日本妖怪、酒呑童子の圧勝に終わりましたァッ!」


 ​一つ目小僧の絶叫が、未だ興奮冷めやらぬ闘技場に木霊する。


 世界の怪異たちが座る観客席は、先ほどまでの傲岸な雰囲気が嘘のように静まり返っていた。彼らはただの勝利ではないことを理解していた。自分たちの代表の一人が、その存在の理ごと、概念のレベルで消滅させられたのだ。それは、力比べの敗北以上の、根源的な恐怖を植え付けた。


​「……驚きました。神便鬼毒の妖気を巫女の霊力で昇華させ、存在そのものを焼き尽くすとは。あれはもはや呪術の領域。彼の怒りと、巫女の祈りが奇跡的な化学反応を起こしたとしか……」


 ​白澤の冷静な解説も、わずかに上ずっている。


 鬼の王が示した力の片鱗は、この闘争の次元を、主催者たちの予想さえも超えた高みへと引き上げていた。


 ​ゲート裏の通路。


 桜子は、焼けるような腕の痛みに顔をしかめ、その場にうずくまっていた。


 契約の紋様が、まるで生き物のように脈打ち、魂を直接削り取っていくような感覚。


​「……おい」


 ​不意に、頭上から声が降ってきた。


 見上げると、そこにいたのは酒呑童子だった。アリーナで見せた荒々しい覇気は鳴りを潜め、その紅い瞳は、静かに桜子を見下ろしていた。


​「腕、見せてみろ」


 ​有無を言わさぬ口調。桜子が恐る恐る腕を差し出すと、酒呑童子は懐から己の酒が入った瓢箪を取り出した。そして、その神便鬼毒酒を数滴、赤黒く浮かび上がった紋様の上へと垂らす。


​「ひっ……!」


 ​桜子は悲鳴を上げた。猛毒を直接傷口に注がれるようなものだ。


 しかし、予想された激痛は訪れなかった。代わりに、ひんやりとした心地よい感覚が広がり、焼けるような痛みがすぅっと引いていく。紋様の禍々しい光も、穏やかなものへと変わっていた。


​「てめぇの祈りは、俺の毒を薬に変えやがった。なら、俺の毒は、てめぇの傷の薬になる。そういう理屈だ」


 ぶっきらぼうに言いながら、酒呑童子は彼女から視線をそらす。


「……なぜ、あんな無茶をした」


​「え……?」


 ​「巫女は祈るだけでいい。下手に感情を昂ぶらせれば、てめぇの魂がもたねぇ。死にてぇのか」


 その声には、紛れもない怒りと、そして、桜子にはまだ理解できない深い後悔の色が滲んでいた。


​「だって……あなたが……」


 桜子は、繋がった感覚の中で見た、彼の心の闇を口にしそうになって、寸前で言葉を飲み込んだ。


「……あなたが、負けそうだったから」


​「……そうかよ」


 酒呑童子はそれ以上何も言わず、踵を返して闇の中へと消えていく。


 その大きな背中が、桜子にはひどく寂しそうに見えた。


 ​貴賓席で戦いを見下ろしていた世界の怪異の主催者、ババ・ヤーガは、その皺だらけの顔に愉悦の笑みを浮かべていた。


「ククク……面白い。実に面白い。日本の鬼は、ただの野蛮な獣かと思っていたが、人の子一人でかくも化けるか。神秘とは、やはり混沌。計算通りにいかぬ……クク……たーのしーいわーい!」


 ​隣に座るぬらりひょんは、静かに盃を傾けている。


「さて、次は何を出してくる。まさか、もう駒切れではあるまいな?」


 ババ・ヤーガの挑発に、ぬらりひょんは答えず、ただアリーナへと視線を送る。その視線の先で、一つ目小僧が新たな対戦カードを高らかに告げていた。


​「さあ、悲しんでる暇はねぇ! 続く第二回戦! 世界妖怪サイドから登場するのは、こいつだァッ!」


 ​ゲートから現れたのは、巨大な蛇。


 いや、その下半身は紛れもなく大蛇だが、上半身は硬質な鱗に覆われた王の姿をしていた。頭には鈍色の王冠を戴き、その両の眼は、見る者を石に変えるという伝説の邪眼。


​「古のヨーロッパにて、その視線一つで軍隊を滅ぼしたという“石化の蛇王”! バジリスクだァッ!」


 ​バジリスクがアリーナに姿を現しただけで、空気が重く、澱んでいく。その眼は決して観客席を見ない。己の視線が持つ呪いを、完全に制御している証拠だった。


​「対する日本妖怪! この恐るべき蛇王に立ち向かうのは……おおっと! 会場中の男たちの骨が蕩けちまうぜェッ!」


 ​次にゲートから現れたのは、十二単を纏った、絶世の美女だった。


 一歩、また一歩と歩を進めるたびに、その足元から桜の花びらが舞い散る幻が見える。艶やかな黒髪、悩ましげな流し目、吐息さえも甘い香りを放つかのよう。


 しかし、その背後には、ゆらり、と。


 九つの、巨大な狐の尾が揺らめいていた。


​「平安の世、帝を誑かし、国を傾けた“傾国の天狐”! 玉藻前たまものまえ御前おんまえにぃぃぃッ!」


 ​会場の雰囲気が一変する。


 先ほどの血で血を洗うような殺伐とした空気は消え、代わりに、甘く、それでいて魂を蝕むような、妖しい空気が満ちていく。


 ​アリーナの中央で、二者は対峙する。


 全てを停止させる【絶対の呪い】と、全てを魅了する【絶対の幻惑】。


​「あらあら、怖いお顔。わたくし、強い殿方は好きですわ……」


 玉藻前は、その紅い唇を扇子で隠し、バジリスクへと微笑みかけた。


「そので、わたくしの心を射止めてくださいます?」


 ​その言葉と同時に、彼女の瞳が一瞬、金色に輝いた。


 第二回戦の火蓋は、物理的な衝突ではなく、静かな、しかしより狡猾な、呪いと幻の応酬によって切られようとしていた。

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