第二話 満たされぬ飢餓、鬼の酒
壁に叩きつけられ、煙を上げていたウェンディゴの巨体が、ぎしぎしと軋みながら起き上がる。
その腹部には、鬼の王の一撃によって開けられたはずの巨大な風穴があった。しかし、それは見る間に蠢き、肉と骨が絡み合いながら、不気味な再生を遂げていく。
「なっ…! あのダメージを受けて、もう動けるというのか!?」
一つ目小僧が驚愕の声を上げる。日本妖怪の観客席も、信じられないものを見る目でその光景に静まり返っていた。
「無意味です」
白澤が淡々と告げる。
「ウェンディゴの本質は、肉体ではなく『飢餓』という概念そのもの。物理的な破壊は、奴の飢えをさらに刺激し、力を増幅させるための『餌』にしかならない」
その言葉を証明するかのように、ウェンディゴから放たれる妖気は先ほどよりも濃密かつ禍々しいものへと変貌していた。
鹿の頭蓋骨の奥で、赤黒い光が爛々と輝く。
「……なるほどな。殴るだけじゃ死なねぇ、厄介なタイプか」
酒呑童子は面白そうに喉を鳴らすが、その瞳の奥には油断の色はない。
再びウェンディゴの姿が消える。だが今度の動きは、先ほどの直線的な突進とは全く異なっていた。アリーナを縦横無尽に、三次元的に駆け巡り、残像を残しながら酒呑童子を幻惑する。
「速い! そして鋭い! 先ほどとは比べ物にならん!」
四方八方から繰り出される、神速の爪撃。
酒呑童子はそれらを最小限の動きでいなし、あるいは腕で受ける。ガキン、と彼の鋼のような肉体と爪がぶつかるたびに、火花が散った。
一撃、また一撃と、執拗に繰り返される猛攻。
それは、酒呑童子の脳裏に、忌まわしい記憶の残滓を呼び覚ました。
——平安の世、大江山。
神便鬼毒酒に酔わされ、寝首を掻かれたあの夜。
源頼光と四天王。彼らの刃もまた、このように執拗に、己の体を刻んだ。
そして、目の前で……守るべきだったはずの女が、血に染まっていく姿を、ただ見ていることしかできなかった……。
「……っ!」
一瞬の、しかし致命的な思考の澱み。
その隙を、飢えた獣が見逃すはずがなかった。ウェンディゴの爪が、酒呑童子の頬を浅く切り裂く。
飛び散る鬼の血。
その血の匂いを嗅いだウェンディゴの動きが、一瞬だけ止まり、その飢餓感が歓喜に震えた。
「しまっ……!」
桜子の悲鳴が、闘技場に響く。
繋がった感覚を通して、酒呑童子の動揺と、脳裏に流れ込む絶望的な光景が、彼女の心を直接苛んでいた。
怖い。巨大な妖怪も、血の匂いも、全てが。
でも、それ以上に、今、目の前で戦う鬼の王の心が、過去の悪夢に囚われ、折れてしまいそうなのが、もっと怖かった。
(負けないで……!)
それは祈りか、願いか、あるいは命令か。
少女の魂からの純粋な叫び。彼女の内に秘められた「畏れ」と「祈り」が、契約の道を駆け巡り、鬼の王の魂へと注ぎ込まれる。
『神懸(かみがかり)』
「——チッ。余計な真似を……」
酒呑童子の全身から迸る「神便鬼毒」の妖気が、爆発的に膨れ上がった。だが、その色は今までのような荒々しい赤黒さではない。どこか気高い、桜色の光を帯びていた。
ただの暴力の化身ではない。巫女の祈りを受け、聖性と狂気を同時に宿した、真の〝鬼神〟としての姿。
「だが……悪くねぇ」
酒呑童子は、切り裂かれた頬を舌で舐めた。
滴る自らの血が、もはやただの血ではないことを、彼は理解していた。桜子の祈りによって、彼の妖力はより洗練され、その本質である「神便鬼毒酒」としての純度を極限まで高めていた。
ウェンディゴが、鬼の血の匂いに狂ったように突進してくる。それは、抗えぬ本能。究極の飢餓が、究極の美食を求めて。
「腹が減ってんだろ?」
酒呑童子は、向かってくるウェンディゴに拳を構えた。
「なら、俺様が極上の酒で、てめぇの渇きを永遠に満たしてやるよ」
彼は、自らの拳でウェンディゴを殴らなかった。
その拳は、ウェンディゴの眼前、何もない空間へと突き出される。
「奥義——【
酒呑童子の心臓の鼓動が、アリーナ全体に響き渡った。彼の血を帯びた妖気が、空間の一点で急速に圧縮され、そして——爆ぜた。
桜色の炎が、ウェンディゴを内側と外側から同時に焼き尽くす。それはただの炎ではない。猛毒の酒が燃え上がる、決して消えることのない地獄の業火。
「ギ……アアアアアアアアアッ!」
ウェンディゴが、最初で最後の満腹に絶叫する。飢えは、満たされることで消える。ならば、決して満たしてはならない猛毒の酒でその存在を飽和させてしまえばいい。
鬼の王の理不尽な理屈が、飢餓の化身の存在法則を上書きしていく。
やがて絶叫は途絶え、桜色の炎が消えた後には、何も残ってはいなかった。ウェンディゴは、その飢餓の概念ごと、この世から完全に消滅した。
「しょ、勝者、酒呑童子ィィィィッ!!」
割れんばかりの大歓声の中、桜子は安堵のあまり、その場にへたり込んだ。
「……よかった……」
だが、その瞬間。彼女の右腕に、まるで燃え盛る鉄を押し付けられたかのような、激痛が走った。
「きゃっ!?」
見れば、腕には契約の証である鬼の角を模した紋様が、赤黒く浮かび上がっている。これが『神懸』の代償。
ふと、視線を感じて顔を上げる。
アリーナの中央で、酒呑童子がこちらを振り返っていた。その表情は、いつもの不敵な笑みではない。勝利の昂揚でも、安堵でもない。
自らの過去と、目の前の少女の未来を重ね合わせるかのような、ひどく複雑な、そしてどこか哀しげな色を宿していた。
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