第四話 邪眼の心、幻の鏡

「始まったァ! 第二回戦、にらみ合いから動かない両者! しかし、これは静かなる死闘! 先に瞬きをした方が敗れる、呪いと幻術の応酬だァッ!」


 ​一つ目小僧の実況が、緊張に満ちた闘技場に響く。


 アリーナの中央、バジリスクはその場から一歩も動かず、ただ玉藻前を凝視していた。その瞳には、生物の時間を永遠に停止させる石化の魔力が、満々と湛えられている。


 対する玉藻前も、優雅な微笑みを崩さない。扇子で口元を隠し、流し目を送る。一見すれば、ただの男女の駆け引きのようだが、その視線の交錯は、互いの精神の最も深い領域で行われる、魂を削り合う死闘だった。


​「ククク……面白い。蛇の邪眼は、対象を『物体』として認識し、その存在情報を『石』に書き換える呪い。対して、狐の幻術は、対象の『認識』そのものを書き換え、偽りの世界を見せる術。矛と盾。どちらの『書き換え』が上回るか……」


 貴賓席で、ババ・ヤーガが楽しそうに解説する。


 ​バジリスクの額に、汗が浮かぶ。


 おかしい。


 彼の邪眼は、これまでいかなる生物をも、その精神力ごと石に変えてきた。神々でさえ、その視線を長く受ければ無事では済まないはずだった。


 だが、目の前の女狐は、平然と微笑んでいる。それどころか、視線を合わせるほどに、彼女の姿がより一層美しく、艶めかしく見えてくる。


 十二単の衣が透け、その奥にあるはずの白い肌が見えるようだ。甘い香りが鼻腔をくすぐり、思考が蕩けていく。


​(……いかん! これは幻術か!)


 ​バジリスクが自らの精神を奮い立たせ、呪いの力をさらに強めようとした、その時。


​「——遅うございますわ」


 ​玉藻前の声が、彼の脳内に直接響いた。


 ハッと我に返ったバジリスクが見たものは、信じがたい光景だった。


 玉藻前は、いつの間にか懐から小さな手鏡を取り出し、その鏡面をバジリスクに向けていたのだ。


​「あれは……!?」


 白澤が息をのむ。


雲外鏡うんがいきょう……!? 森羅万象を映し、時には人の心や未来さえも映し出すという魔鏡……! なぜあれを玉藻前が……?」


 ​鏡に映っているのは、バジリスク自身の姿。そして、その瞳から放たれる、紛れもない石化の邪眼。


「……! いや、違う! あれは彼女自身の妖力で作り出した、幻の鏡……!」


​「ご自身の呪いは、ご自身でお受け取り遊ばせ?」


 ​玉藻前が妖しく微笑む。


 バジリスクは、鏡に映った「自分自身」と目が合ってしまったのだ。


​「グ……オ……!?」


 ​悲鳴にならない声が、蛇王の喉から漏れる。


 彼の足元から、急速に石化が始まった。それは、彼がこれまで幾千幾万の犠牲者に与えてきた、絶対の呪いそのもの。


 硬質化していく鱗。動かなくなる筋肉。永遠の牢獄へと変わっていく自らの肉体。


​(馬鹿な……! 我が邪眼は、鏡ごときで反射できるような単純な術ではない! なぜ……!?)


 ​混乱するバジリスクの思考を読み取ったかのように、玉も前はくすくすと笑った。


​「わたくしが映したのは、あなたの『姿』ではございませんわ」


「映したのは、あなたの『心』。あなたが、わたくしを石に変えようと欲望した、その『呪いの心』そのものを、そっくりそのままお返ししただけのこと」


 玉藻前の幻術は、バジリスクに「鏡に自分の姿が映っている」と誤認させ、彼自身の呪いを彼自身へと向かわせるための、壮大な罠だったのだ。


​「決まったァーッ! なんという決着! 蛇王バジリスク、自らの邪眼によって石と化したァッ!」


 ​完全に石像と化したバジリスクが、音を立てて崩れ落ちる。


 第二回戦もまた、日本妖怪の、それも一方的な勝利に終わった。​観客席が、今度こそ本当の静寂に包まれる。


 力でねじ伏せた酒呑童子。


 智で弄んだ玉藻前。


 日本の妖怪が持つ、その底知れない実力と多様性を、世界の怪異たちはまざまざと見せつけられた。


 ​玉藻前は、崩れた石の残骸に一瞥もくれず、優雅に踵を返す。


 ゲート裏へと戻る途中、彼女は通路の影で腕を押さえている桜子に気づき、ふと足を止めた。


​「あら、可愛い巫女さん。鬼の王は、あなたにご執心のご様子ですわね」


 その声は蜜のように甘いが、瞳の奥は氷のように冷たい。


「でも、お気をつけなさいまし。あの御方は、愛した女を幸せにはできませぬ。かつての『桜御前』のように、あなたもまた、鬼の愛の生贄となり、その命を散らすことになるやもしれませぬわよ?」


 ​桜子の心を見透かすような言葉。


 それは、ただの忠告ではない。桜子の心を揺さぶり、酒呑童子との絆に楔を打ち込もうとする、狡猾な狐の罠。


 ​桜子が反論の言葉を探す前に、玉藻前は「ほほほ」と笑いながら去っていった。


 一人残された桜子の胸に、新たな不安と、そして、玉藻前が口にした言葉の真意が、重くのしかかるのだった。

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