百鬼闘諍 篇

第一話 鬼の王、生贄の巫女

 ​月が、血のように赤い。


 ​生と死の狭間に浮かぶ闘技場『朧月夜の宴』。その広大なアリーナを、観客席を埋め尽くした妖怪たちの熱気と殺気が満たしていた。


​「さぁさぁ皆様、お待たせいたしましたァ! 我ら日本の、いや、この星に存在する全ての怪異の存亡を賭けた代理戦争、『百鬼闘諍ひゃっきとうじょう』! いよいよ、その第一回戦の火蓋が切って落とされます!」


 ​一つ目小僧の甲高い声が、闘技場に響き渡る。彼の隣では、万物の知識を持つという神獣・白澤はくたくが、静かにアリーナを見つめていた。


​「解説の白澤さん! 記念すべき初戦、いきなりとんでもないのが出てきましたねェ!」


 ​一つ目小僧が指し示した世界妖怪サイドのゲートから、何かが這い出てきた。


 それは、飢餓そのものが形を成したような異形だった。痩せこけ、灰色の皮膚は骨と筋を浮き上がらせ、頭部には苔むした鹿の頭蓋骨が不気味に鎮座している。その全身から放たれるのは、触れるもの全てを喰らい尽くさんとする、純粋な飢えの妖気。


​「北米大陸の森に伝わる飢餓の化身、ウェンディゴ。その爪に触れた者は魂まで貪られ、同じく飢餓の化身と成り果てるという。初戦の相手としては、これ以上なく厄介な相手です」


 ​白澤の冷静な解説に、日本妖怪の観客席がどよめく。


 相手の禍々しさは、素人目にも明らかだった。初戦を落とせば、勢いは一気に世界妖怪サイドへと傾くだろう。誰もが固唾を飲んで、自軍の先鋒を待っていた。


​「……怖い」


 ​日本妖怪サイドの入場ゲート裏。


 高校の制服に身を包んだ少女、桜子さくらこは、震える自分の手を固く握りしめていた。


 数日前まで、彼女はごく普通の女子高生だった。受験を控え、友達とカフェに行き、流行りのドラマに夢中になる。そんな日常が、目の前に現れた一人の男によって、粉々に砕かれたのだ。


​「日本の先鋒は……おっと、これは一体どういうことだァ!?」


 ​実況の声に促され、桜子は意を決してゲートをくぐる。


 闘技場に現れたのが屈強な妖怪ではなく、か弱いただの人間であることに、観客席が騒然となる。


​「なぜ人間が?」


かんなぎか? だが、あの少女の顔……どこかで……」

 ​妖怪たちのざわめきの中、白澤が僅かに目を見開いた。

「……まさか。あの顔立ちは……! 平安の世、大江山に咲いたという伝説の美女、桜御前さくらごぜんに瓜二つ……!」


 ​その名は、ある特定の妖怪を知る者にとって、特別な意味を持っていた。


 ​桜子が、アリーナに立つウェンディゴの異形に怯え、後ずさりしそうになった、その時。


 ぬっ、と彼女の背後の影から、丸太のように太い腕が伸び、優しく、しかし有無を言わさぬ力強さでその肩を抱いた。


​「——心配すんな。てめぇは俺の勝利を、特等席で見てりゃいい」


 ​振り向けば、そこには酒の匂いを纏った巨躯の男が、不敵な笑みを浮かべて立っていた。


 焔のように赤い髪、額から突き出た二本の角。その眼光は、相対する全ての者を屈服させる、絶対的な王者のそれ。


​「出たァーッ! 日本妖怪が誇る最強戦力の一角! 千の鬼を従え、帝さえも震え上がらせた“鬼の王”! 酒呑童子しゅてんどうじ、ここに降臨ッ!!」


 ​割れんばかりの歓声が、日本妖怪サイドから巻き起こる。


 酒呑童子は桜子の頭をわしわしと撫でると、一歩前へ踏み出した。


​「久々の喧嘩だ。骨のあるやつだといいんだがな」


 ​アリーナの中央で、二つの異形が対峙する。


 全てを破壊する【剛勇無双】と、全てを喰らい尽くす【尽きることなき飢餓】。


 『力』の化身と『欲』の化身。その対峙は、世界の均衡が崩れる前触れのようだった。


 ​観客席の最上段。主催者であるぬらりひょんが、満足げに盃を傾ける。

 そして、静かに、その手を振り下ろした。


 ​それが、開戦の合図だった。


 ​瞬間、ウェンディゴの姿が掻き消えた。


 飢餓の化身は、獲物を前にした獣の本能のまま、不可視の速度で距離を詰める。


「速いッ! 目で追えない! いきなり仕掛けたァ、ウェンディゴ!」


 ​観客席の誰もが、酒呑童子の敗北を予感した。


 しかし、鬼の王は動かない。ただ、その口の端を吊り上げているだけ。彼の周囲の空間が、触れるもの全てを腐らせるという「神便鬼毒しんぺんきどく」の妖気で、陽炎のように揺らめいていた。


​「——見えねぇか? 巫女様よ」


 ​酒呑童子の声が、桜子の頭に直接響く。


 『神懸かみがかり』。契約によって、二人の感覚は繋がり始めていた。


 ​桜子が恐怖を堪え、瞳を凝らす。


 すると、見えた。

 常人には捉えきれない時の流れの中で、鋭利な爪が、真っ直ぐに酒呑童子の喉元へと迫っているのが。


​「——遅ぇんだよ」


 肉が爆ぜる、鈍い音が闘技場に響き渡った。


 ​それは、ウェンディゴの爪が酒呑童子に届くよりも、コンマ一秒早く。


 鬼の王が放った、ただの右ストレート。


 しかし、山をも砕くその一撃は、超高速で動くウェンディゴの腹部に、まるで置き去りにされたかのように深々とめり込んでいた。


​「グ……ギ……!?」


 ​初めて発したウェンディゴの声は、苦痛の喘ぎだった。


 酒呑童子は、拳を突き刺したまま、獰猛に笑う。


​「腹が減ってんだろ?」


「おら、たんまり喰らいやがれ」


 ​次の瞬間、拳から凄まじい妖力の衝撃波が放たれ、ウェンディゴの巨体が「く」の字に折れ曲がり、砲弾のような勢いでアリーナの端まで吹き飛ばされた。月の砂を派手に巻き上げ、闘技場の壁に叩きつけられる。


 ​静まり返る観客席。


 その中心で、酒呑童子は肩を回しながら、つまらなそうに呟いた。


​「……なんだ、もう終わりか?」


 ​鬼の王の圧倒的な一撃が、百鬼闘諍の開幕を告げていた。

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