春野のインフルエンザの看病

 白石は外へ出ると井戸へ向かって歩き出す。外は雪化粧のようにちらりちらりと粉雪が降っている。

 井戸へ着くと白石は水を汲み、水を汲んだ桶を持って台所扉方面へ向かう。台所の扉を開けると素早く行動をする。


「よいしょっと」


 白石は水を台所で別の小さな桶に入れると、その水を入れ替えた桶を持って春野の部屋へ向かう。布団で寝ている春野は息が甲高く苦しそうだ。既に部屋には木乃葉が多くの布を持ってきていた。これは白石の指示である。


 勿論室内では必要な火などは炊くが、問題はここからだ。近頃の医療では温かくしながら治療し寝かするというのは間違っていて、風邪の時などは体の高まった体温を下げるなどをする。


 白石は木乃葉に向かい合うようにして座ると、真剣な表情をしてこう言った。


「春野さんの上半身を脱がせてもよろしいでしょうか」

「え……?」


 白石の言葉に木乃葉はさも驚いた表情を浮かべる。それはそうだろう。突然妹の裸を見てもいいか? と聞かれて、ええ、いいですよなんて言う姉はいない。

 疑問口調とやや引きつった表情を浮かべて木乃葉は白石に聞き返す。


「それは何故ですか?」

「布に冷たい水を含ませ、それを絞り体を拭いたり冷やしたりしたいからです。風邪の時など、体温が高いときは温めるのは間違っているのです」

「それは、本当ですか」

「本当です」


 きっぱりと木乃葉に言い切った白石。言葉を交わした後に二人の間に静寂が満ちた。白石の真剣な表情を見て木乃葉は根負けしたように首を縦に振った。


「分かりました」


 白石は春野に向き直ると許して下さいといい。頭に冷たい水でしっかり冷やした布を置いた後に着物に手を掛け上半身を露わにする。白石は肺や喉の周辺の呼吸音を聞いて喘息などが起きていないかを確かめる。


「喘息みたいなものはないな……医者でもなんでもなく薬もないので起きていたら困ったことになっていたぞ」


 そう言いながら白石は体を拭いたり、脇の方などによく搾った冷たい布を持って行き、春野自身の腕で挟むように置いていく。


 木乃葉は正座をしながら白石の様子を見ている。その表情は愛する妹が病魔で苦しんでいる姿を見ているのが辛いという表情がありありと出ていた。そんな風に付き添う木乃葉に白石はこう言った。


「もう遅いかもしれませんが、木乃葉さんは外の新鮮な空気を吸ってこの部屋には入らないで下さい」

「なぜですか? 私も付き添います」

「それはなりません。風邪やインフルエンザの原因はウイルス、つまり病原菌が原因です」

「いんふるえんざ、うぃるす? きん?」

 

 そこで白石はしまったという表情をする。細菌学の確立さえ近代なのにウイルスの発見は二十世紀に入ってからなのである。更に手洗いなどが必要だと発見されたのは更に後になる。

 あまり妙なことを言うとこの人はなんなのだと言われかねない。


「信じて下さい。俺はあなたまで病気にはなってほしくない」


 白石は一枚の長い布を取ると、自分の後頭部付近で結ぶようにし、マスク風にする。少なくとも咳などの飛沫はこれで防ぐことができるだろう。


「そのように口の周りに布を巻けば大丈夫なのでしょうか?」

「いえ、これはそんな高性能なものじゃありません。あくまで飛沫。いわゆる咳による飛沫などを抑える効能が期待されるかなという程度のものです」

「……どうやら私には分からない世界のようです。でも私もせめて……」

「だめです。あなたまで倒れたらどうなるんですか? 俺は春野さんも大事ですが、あなたも大事な人なんです」


 きっぱりと厳しげに言い切る白石。そこで木乃葉は泣きそうな顔になった。なにもしてやれない自分が歯がゆくて仕方がない。科学力もなにもない時代には人は病気の前では無力だ。それは木乃葉の責任でも何でもない。 


「白石様ぁああーうあああああああん」


「大丈夫だから。ね、泣かない、泣かない」


 泣く木乃葉背中を撫でていると白石は心の中に炎のような物が燻るのを感じた。先ほど重治郎に職に対して命を賭けられるか? と問われたことを思い出す。そのときに怖じ気づいたのが悔しくて仕方がなくなった。


 木乃葉が退出した室内で白石は燃えたぎるような志と思いを抱く。


 この貧弱な科学力ではこんな小さな子の病気も治せず、家族は泣いてさえいる。昔読んだ本に書いてあったのは、江戸幕末に滞在した海軍士官エドゥアルド・スエンソが各家庭に多くの統一性のない仏像が多く飾ってあったそうなのだが、やはり家の者が長生きしないという意味で祈願のためにおいてあったのではないかという説がある。


「今、木乃葉さんが泣いているんだぞ! だから俺は……料理による外交をしなくちゃならない。それが人を救うのなら尚更だ! もう逃げん!」


 命を賭けられるのか? 上等だ。いくらでもこの命を賭けてやる。どうせ自分はあの時に死んでいてもおかしくない身だったのだ。その自分の動きが文明開化に繋がるのであれば喜んでその礎になろう。


 ただと考える。直ぐに開国路線に傾くのも時期尚早。そんなことを急速にやれば即座に日本は大混乱になる。人を泣かせないためにも自分は自分の考えで行く。白石はそんな計算を頭の片隅に置いて春野の治療に当たっていく。


 何度も何度も水を汲み、何度も何度も布を変え、重治郎からはろくな医者が見つからないなどとの報告を受けた翌日の昼、春野は白石の看病が効いたのか緩やかな寝息を立てて寝始めた。


 もう外は昼の光で照らされている。白石は神に祈るようなポーズを取った後に春野のおでこに手を当てた。


「大分下がっている」


 自分の額を春野の額に重ね再度体温を測定する。


「大丈夫だ。下がっている。山場は超したのか……」


 あれから二十四時間ほど経過していた。白石は懸命に春野の看病をし徹夜をしていた。それから夕方頃になって春野は薄ぼんやりとした視界で目を開けたことが白石には分かった。もう息も落ち着いており、先日の死にそうな状況とは打って変わっていることが白石にはわかった。


「こ、こんな時にす、すみません、兄様と大事な話があったのでしょう……そ、それなのに、私は、私はううっ……」

「君はそんなことを気にする必要はないよ。病人なんだからゆっくりしていなさい」

「す、すみません、すみません……」


 春野はまだ具合が悪いのだろう顔色と表情を見ていれば分かる。そんな状況でも謝り続ける春野に白石はゆっくりとした仕草で頭を撫で、寝るように指示をしていく。


 大分下がっているが、それでも白石はまたしても布を何回も変え、春野を楽にするように懸命に努力をしていく。


 そして日の夜、春野の熱が先ほどより下がったのを白石は確かめて、ほっと安堵の息を吐いた。インフルならばこんなに早くには治らないだろう。恐らくたちの悪い風邪だったのだ。

 とはいっても、このような薬もなにもない時代の高熱は危険だ。高熱は脳炎や肺炎などを起こす危険性があったので予断は許さないと白石は思っていただけに気が抜けそうになった。


 白石はもし春野が少しでも食べられるようになったらと思い、既に台所で料理を仕込んでいた。木乃葉も懸命に手伝ってくれて白石は木乃葉には頭が上がらないなと思った。


 特に木乃葉の良いところは物わかりが良いということだ。自分たちには分からない科学の話でも白石を信じてそれ以上春野の部屋にいることはなかった。


 彼女と心が通じ合っていて、それでいて信頼されているようで白石は嬉しい気持ちになった。


 つい気が抜けたのか白石はコクリコクリと船をこぐようにして座ったまま寝始める。意識はしっかり持っていると思っていたのだが、どうやら春野の回復の先行きがはっきり見えたので安心しきったようだ。


 船をこぐ白石。その頃布団で寝ていた春野はゆっくりまぶたを開けると、船をこぐ白石を見やる。穏やかな寝顔だった。


「白石様」


 春野の問いかけに言葉は返ってこない。どうやら白石は完全に寝てしまっていることを春野は感じ取った。これほどクリアな意識になるのは数日ぶりだろうか。

 春野は寝息を立てている白石に深く深く頭を下げ、誰に聞こえるわけでもなくお礼を言う。


「本当にありがとうございます。私の命はあなたによって救われました」


 スースーと寝息を立てる白石を見て春野は思う。もし姉様が白石を好きじゃなかったら自分は白石を好きになっていただろう。白石は優しく、人のことを考え、とても人が良い。


「看病されていた私は幸せ者でございました」


 熱が大分下がり、微熱ぐらいになったのを春野も感じ取っていた。だからゆっくりと布団から起き上がり、白石の顔を見やる。


(愛おしいと思うのは罪なのでしょうか?) 


 そんなことを自問自答する。いや姉が好きな人を自分が好きになるのは罪なのだろう。そっと手を伸ばし白石の顔を触る。その後に春野は部屋の隅にある上掛けを取ってきて白石の肩に掛けようとした時に白石ははっと様子で目を覚ました。


「おっと、いけないいけない」

「おはようございます白石様」

「春野さん」


 動けるようになった春野を見て白石は瞳に涙を溜める。嬉しいという感情とほっとした感情が入り交じったなんとも言えない気持ちだった。

 それでも白石は気丈に振る舞い、春野の体調を一つずつチェックするように聞いていく。


「気持ち悪いとか、頭がぼっーとするとかない?」

「ないです」

「どれ」


 白石は春野の額に自分の額を合わせると熱は微熱程度に収まっているのが分かった。小恥ずかしそうにする春野だが、春野は目を瞑りその至福の時間を楽しむようにする。

 その瞬間、ぐっーと春野のお腹が鳴った。それを聞いて白石は笑顔を浮かべる。


「少し食事は食べられそうかな?」

「はい。実のところお腹が空いてきてしまって。病み上がりでお恥ずかしいのですが」

「いやいや、恥ずかしがる必要はないよ。それは体が元に戻ってきたサインだから。ちょっと待ってね。今作っておいた食事を持ってくるから」

「でも脂っこいものはちょっと無理かもしれません」

「そこはご安心を、この白石弦。こんなこともあろうかと思い最高の病人食を作っておきましたので」

「ありがたい限りでございます」


 白石はちょっと待ててねというと台所に消えて言った。暫く時間が経って、白石は二つの深皿と一つの湯飲みに入った料理を持ってくる。


「重治郎さんと木乃葉さんが、春野さんの体調が良くなった時のことを考えて色々用意をしてくださったんです」

「兄様と姉様がですか? 本当にありがたいです。私は幸せ者です」


 目尻に涙を溜める春野に白石は料理を懸命に手伝ったのは木乃葉だと説明する。


「この料理、木乃葉さんが真剣に手伝ってくれてありがたかったですよ。今、木乃葉さんがこの部屋にいないことは後々説明しますので」

「はい!」


 私に出来ることは妹に美味しい料理を作ることぐらいしかありませんと言い、木乃葉は懸命に動いてくれた。姉妹愛を感じて白石はもらい泣きしそうであったことを思い出す。


 まずは一品目は野菜のすり流し椀であった。冬瓜と長ネギ、にんじん、カブ、大根などを暫くコトコトと煮続ける。完全に煮えたら野菜をすり鉢に入れてすりこ木で潰す。その野菜を煮たスープは取っておいて。煮汁を加えながらなめらかになるまですり伸ばし、更に裏ごしをしてピューレ状にする。そこへ塩を加え味を調え、出来上がった野菜のすり流し椀を器に盛る。


 そのすり流し椀にしっかりと茹でたさやいんげんを載せて一品目は出来上がる。やや褐色を帯びた乳白の野菜のすり流し椀に緑豊かなさやえんどうを添えると、美を感じさせる一つの極上のアートになる


 もう一皿には、しいたけ、えのきたけ、ショウガ、油揚げと米で炊いたきのこと油揚げの生姜ご飯である。ベースはショウガと醤油、酒などだからきっと病人でも食べやすい筈だ。


 もう一品は蜜柑があったので、しっかりと搾って蜜柑ジュースにした。そのまま食べるよりもジュースにした方が病人にはいいかもしれないと白石が考えたことだ。


「完全に温めちゃうときのこと油揚げの生姜ご飯が焦げてしまうから適温で我慢を。野菜のすり流し椀は常温で、そしてもう一つが蜜柑ジュースです」


「みんな聞いたことがない料理ですが。和食でしょうか」

「蜜柑ジュース以外は」

「じゅーすとはなんでしょうか?」

「蜜柑の果実のみを搾って液体のみを抽出したものです」

「ふわっ、不思議なお食事ですね」


 目の前に置かれた芸術品に春野は大きな吐息を吐いた。まずは野菜のすり流し椀に手をつける。レンゲと箸を用意してあるので、まずはレンゲを使って野菜を吸うようにして食べる。


「うわっ……美味です。そしてなんて優しい味なんでしょう……」


 口の中へ入れると滋味溢れる味がふわりと広がる。野菜の甘く、更にコクのある深い味。すり流し椀自体に野菜の旨さの全てと香りが凝縮するように計算するように作られている


 そんな椀の奥深い味わいがふわっと口内で広がる。箸でさやいんげんを持ち食べるとさやいんげんの風味と食感が楽しめる。病人のために作られたとしか思えない見事さがあった。


「木乃葉さんが野菜を煮て、木乃葉さんがすり潰したのです。私がどうしてもやりたいと言われまして」

「姉様……ぐすっ……」


 愛のあるすり流し椀を見て春野は涙を浮かべる。ありがたいどころの話じゃなかった。春野はすり流し椀をお盆へ戻すと、きのこと油揚げの生姜ご飯を口に入れる。


ご飯を一口食べると、醤油ベースのショウガ風味にもちもちとした米質を持つ炊き込みご飯が楽しめる。わずかに酒の香りがして気持ちの良い味だった。そこへしいたけなどのキノコ類のふくよかな味が複雑に絡み合い深い奥行きのある味になっていた。


「とても美味しいです。元気が出てきます。そしてこれは……」


 湯飲みに入った蜜柑ジュースを見やる。透明ながらも若干のオレンジ色のあるジュース。香りを嗅ぐと清涼感のある香りがした。


 一口啜ってみる。その瞬間に春野の顔は幸せに包まれる。


「なんということでしょう……とても甘く、そして酸味が少なく、とても良い香りです」

「少しだけ砂糖を足しました。飲みやすくなる筈だと思いまして」


 ジュースに舌鼓を打つ春野に白石はそう言った。春野はジュースをお盆へ戻すと、白石に向き直り深く深く頭を下げる。


「白石様、本当に助かりました。私はこのことを一生忘れません」

「そ、そんな医者でもないのに勝手なことをしたな思っているぐらいです」

 

 謙遜する白石に春野は顔を左右に振りその言葉を否定した後にこう言った。


「私は今回の病、白石様がいなかったら命が危なかったと思っています。助けてくださってありがたいと思っています」

「とんでもない、そう言って頂けて看病した冥利に尽きます」


 そういうと白石と春野は笑顔を浮かべるのだった。その彼女のいつもの穏やかな笑顔が見れて白石は本当によかったと思っている。


 それから数日が経ち、今日も木乃葉と春野、白石が台所で忙しく動き回る。朝餉の準備だ。加納屋が珍しいものを仕入れたと言い、その持ってきた食材を調理する。


 誰よりも春野の体調を回復したのを喜んだのは木乃葉と重治郎だった。白石はそんなことを理屈ではなく肌で感じとっていた。


「それじゃ最高の料理にするのです。白石様いきますよー」

「了解!」

「春野、あんまり無理しないの病み上がりなんだから」

「もう大丈夫です、姉様! 私はもうこの通り元気です!」


 やはり春野が元気じゃないとこうしたテンポのある小気味のいい会話にさえならない。

 春野が元気になって元あった青木家の台所風景が戻った。そして先日の話になるが白石は既に重治郎にこう伝えていた。


 死を恐れていないわけではありませんが、俺には俺の目標ができました。なので幕閣の方々に料理を振る舞いたいと思います。


 それを聞いて重治郎は逆に白石に深く深く頭を下げた。そして妹の命まで救って貰って私はあなたにどう恩を返したらいいかわからないと瞳に涙を溜めてそういうのであった。


 こうして白石弦は徳川の世界に足を踏み入れることになるのであった。

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