春野のインフルエンザの看病と重治郎の重い提案
雪乃のお菓子作りから暫く時間が経った十二月一日。白石は加納屋に相談していたあることを今朝に達成していた。
それは山羊の乳からチーズとバターを作ることだった。寒い時期というのが味方し、バターも苦労して作ることができた。
何よりもありがたかったのは、加納屋の知り合いが山羊から乳を搾ることを快く了承してくれたことだった。山羊はおとなしく乳を搾らせてくれない。気に入る餌などを与えて、おとなしくさせてからでないと搾れないのはいい経験だった。
色々な案を加納屋に言っていると、先日と打って変わって加納屋は親身に相談に乗ってくれた。
更に油と酢、そして卵黄から作るソースマヨネーズなども実験の結果作れるようになったし、加納屋が観賞用の玉ねぎを持っていたおかげでタルタルソースまがいも作れるようになった。
そして話はまたそれから一日経った十二月二日になる。お昼に白石は重治郎の部屋に呼ばれて、二人は正座して向け合うようにしていた。
重治郎の顔は真剣そのものであった。重治郎は顎に何回か手を当てるとどう切り出したらいいものかと呟くと意を決した様子で白石に向けてこう言った。
「白石殿」
「は、はい」
「そう緊張されるな」
「は、はい」
重治郎はとても優しい。その優しさは武士とは思えないほどに。重治郎は白石の瞳を見るとキリッと衣服を正してから話を続ける。
「白石殿には以前にもお話したとおり、私は料理による外交を行い、開国もやむなしという考えの持ち主であることをお伝えしたことがありますね」
「は、はい」
「白石殿」
「はい」
重治郎は白石の相づちを優しげな表情をしながら聞いた後に続ける。
「申し訳ない気持ちになるが、実は内々に白石殿の料理の腕を上に伝えていたのです。私の書いた意見書自体が一部の幕閣の方に紹介されまして、そこで興味を持たれた方もいるようなのです」
「は、はい」
「それで今度の合議の席に白石殿を同席させて、白石殿のお話を聞きながら料理の腕を披露してはどうだろうかということになりましてな」
そこで重治郎は言葉を止める。どうやら白石の様子を窺っているように見える。対する白石はあまりの急な話にボーッとした表情になってしまう。あまりとも言える急激な話の流れに頭がついていかない。だから重治郎は少し時間を置いてから白石に自分の思いの丈を伝えた。
「白石殿、これは私の悲願でもあるのです」
「……」
「あまりの急な話に驚かれたかしれません。しかし私の悲願は白石殿の料理知識がないと達成できないと思っています」
「そう言っていただけると嬉しいです」
重治郎は着物の裾を握ると、真剣な表情でこう白石に切り出した。そこには冗談のかけらも含まれてはいない。
「まだ正式名称は決まっておりませんが、幕府ではアメリカ応接係にしようかとする案があります。どうです、そこで一つ自分の腕を試してみようと思いませんか? あなたの腕はこんなところで腐らせるのは惜しい。勿論成功すれば白石殿の将来に一歩輝かしい未来が見えることでしょう」
「ありがたいです……」
白石は泣きそうになった。そんな凄まじい職務の中に自分を入れようと懸命に尽力してくれている重治郎にありがたさを通り越して眩しくさえ見えてくる。
しかしそこで重治郎は困った表情をし、しかし人生の分岐点であると同時に、いいことずくめの話ということでもないのですと付け加えた上で、白石に聞いた。
「白石殿はこの転機に命をかけることがお出来になるか?」
重治郎の問いかけに白石は深く深く頭を下げるとその問いかけに対する返事する。
「誠心誠意命をかけて仕事を頑張らせていただきたいと思います」
「うむぅ……」
白石にとって、自分の人生の最大のチャンスになるかもしれないこの案を蹴るつもりなんか到底ない。むしろ料理を作ることが大好きなので、こんな高貴な仕事に就き、更に生かせるなんてことは嬉しい以外に他ならないことだった。
しかし白石はここで一つの大きな勘違いをしていた。重治郎の命をかけることがお出来になるか、というフレーズは白石が思っているほどに甘くはないということを。重治郎は白石に鬼気迫る表情を向けるとこう言い切った。
「本当に命をかけるという意味です」
「はい! ですので命がけで……」
そこで重治郎は白石殿、それは違うんですと話を遮り、しっかりしたことを伝える。
「失敗すると死が待っているかもしれません。私の考えもそうですが、白石殿の料理も大きく国法を乱すと恐れがあるかもしれません。更にその席には内々の情報なのですが、私の意見書を読んで下さった幕閣の方々も来るらしいのです」
「え……」
それを聞いた瞬間白石の体がぶるっと震えた。背中に嫌な汗が張り付く。徳川三百年はその固い法と秩序によってもたらされてきたものだ。特にその秩序を乱す者や、やらかしなんてした日には命がいくつあっても足りないぐらいだ。
白石は重治郎の顔を見れず、額に脂汗を浮かばせながら考える。対する重治郎も額に脂汗が浮かんでいた。幕府というものはそこまで、いやとことんまで恐れておいた方がいい。
(どうする……俺は自分の命を賭けれるのか、正直言って怖い。吐きそうなほど怖い)
白石の手がカタカタと小刻みに震える。特に黒船問題にナーバスになっているこの時代においてやらかしましたは通じない。しかし逆に言えばその黒船問題がなければ白石にこうしたチャンスさえも回ってこなかったということにもなるのだが。
「急に言われても中々答えが出ないのも承知の上でお聞きしました。合議の席までは一週間近くありますので、その間までに考えをまとめておいてください」
「……はい……」
そんな会話を襖の裏側で聞いていた木乃葉。木乃葉の歯はカタカタと音を鳴らしていた。胸が締め付けられ息が出来ないほどだった。自分にとっては放っておけない白石弦という人物。自分が今愛している人。そんな愛しい人を死地に向かわせたくないと思うのは当たり前のことだろう。
木乃葉は震える足で襖から離れ、春野の部屋に向かう。暫く歩くと春野の部屋に着いて、木乃葉は中に居る春野を呼んだ。
しかし春野からは返事がない。木乃葉は礼儀を破り春野の部屋の襖を開ける。
「え……」
木乃葉はそこで信じられない光景を目にする。室内で春野が畳に体を預けるようにして寝そべって息苦しそうにしていたからだ。
ただ事の様子ではない。木乃葉は小走りで春野の下へ近づき、膝を曲げ春野に懸命に声を掛ける。
「春野! 春野!」
「はあ……はあ……だ、大丈夫です……はあ、はあ……」
木乃葉は苦しそうにする春野の額に手のひらを当てる。熱い、あまりの熱さであった。木乃葉の背中にゾッとした寒気が走る。
江戸時代において子供が育たないの有名な話だ。例えば現在の将軍である徳川家定の父である家慶の子は家定以外全て病死をしている。おおうつけと呼ばれる家定だが、本当におおうつけなのか。
「ちょ、ちょっと待ってね春野……今、兄様を呼んでくるからね」
木乃葉は立ち上がると慌てた様子で小走りに重治郎の部屋へ歩んでいく。重治郎の部屋の前へ着くと、いつもならよろしいでしょうか? と断って入室するところだが、今回ばかりは襖を躊躇いなく開ける。
室内では重治郎と白石がまだ細かい話をしていたようだが、重治郎は開け放たれた襖、つまり木乃葉の顔を見やるとやや叱責するようにして物を言った。
「先ほどからどうしたバタバタと、それと返事ぐらいしないか」
「す、すみません、で、でも……」
白石は木乃葉の入室に気がつき背後へ振り返ると、そこには顔を青ざめ泣きそうな顔をしている木乃葉の姿があった。
「ど、どうしたんです?」
「春野が、春野が……」
「春野がどうしたのだ?」
「こ、高熱に冒され部屋の中で倒れておりました。ぐすり、ぐすり、うううっ」
木乃葉はついに耐えられなくなり涙と嗚咽を漏らした。それを聞いた重治郎は顔面が蒼白になり掠れ声で言葉を漏らした。
「な、なに……」
白石は畳を見ていた視線を上へ上げると、背後の木乃葉の方へ振り向き、あくまで冷静を装って言った。
「お、お医者様にお見せしないといけません。重治郎さん、木乃葉さん」
確かに今朝からの春野は様子がおかしい部分があったかもしれないと白石は思う。台所で時々動くわけでもなく、ぼっーとしていることがあったし、食欲もあまりなさそうだった。それどころかいつもの初々しい表情が消え去っていたようにも見える。
大丈夫か? と白石が聞いても大丈夫という返答しか返ってこなかったので、眠れなかったかなにかかなと思っていたが、まさか病だとは。それを見逃したのは明らかに自分の失態だと思うと白石は歯がみをする。
「そ、そうだ白石殿の言うとおり医者を呼ぼうぞ」
「は、はい。兄様」
医者を呼びに行く木乃葉。その間に重治郎と白石で春野の布団を敷き、春野を布団で寝かせる。
暫くしてやってきた医者は白石の服装と対して変わらない男であった。ただでっぷり肥えており、顔には不健康そうな脂汗が浮かんでいた。
医者の不養生という言葉がこの男にしっくりくる。医者は春の胸を触ったり熱を見た後に、笑顔を浮かべて奇妙なことを言い始めた。
「これは病よけをしておけば大丈夫そうですな。祈祷と薬を服用すれば大丈夫でしょう」
「き、祈祷?」
「さよう。祈ればすっかりよくなるでしょう」
白石の疑問に満ちた口調の前でも、この医者は自信満々な表情で言い切った。
(こ、こいつはなにを言っているんだ? そんなことで治るわけがないじゃないか。非科学的もいいところだぞ)
白石は医者をじっと見やる。どうみても蘭方医ではない。この時代医者になるには特別な免許は必要ない。自分が医者だと言えば誰でも医者になれる時代だった。
その上給料もよかったなんていう話も聞く。例えば医者への謝礼だが薬代一服につき、十三文から二十二文(一千円から二千五百円程度)御殿医ともなれば相当な高額で雇われていたなども聞く。
上手な医者は上手だが。下手な医者に当たればこういう手合いがきてしまう。祈りやら手形やらで解決しようとする手合いが。
漢方として出される薬も現代のように科学的に則ったものかどうかさえ謎である。更にたちが悪いことは西洋医学を志すものでさえも、こういう医者が多かった。
なにやらよくわからないまじないを唱え、更にはよく分からない紙切れと薬を置いていってしっかり金だけは取って、飄々とした様子で帰って行ってしまった。役立たずの藪医者という言葉が一番似合う男だった
「これで大丈夫なのでしょうか?」
木乃葉はやや不安げに重治郎にいうが、やはり西洋を志す重治郎にとっては不満のようだった。そこで白石は正座をして春野の腕を撫でながら言った。
「大丈夫なわけないじゃないですか。こんなインチキみたいな診察で」
日頃の白石から見られないほどの憤りをひしひしと重治郎は感じ取った。正直重治郎は嬉しかった。自分の妹のことをこんなに心配してくれる白石が。そして本当にこの人に話を持ちかけてよかったとさえ思える。
「春野さんの看病は俺がします」
「でも白石様はお医者さまでは……」
「見たところ麻疹でもなさそうですし、俺でも次のまともなお医者さんが見つかるまでは看病できると思います」
恐らく見たところによれば普通のたちの悪い風邪かインフルエンザと白石は思った。あくまで自分はまともな医者が来るまでの代役だ。春野の苦しみが少しでも取れるようにするための看病役に徹すればいい。
医者では決してないが、それでも白石は現代医学を見てきているという強みもあるし、少し病気になって入院や通院したときが一時期あって、その時に病院がどのように自分や他の人に対処をしていたのかを見ていたし、説明も受けたことがある。
熱や諸症状に効く風邪薬がないのは痛いが、白石はなんとか乗り越えてみせると覚悟を決める。
「任せて貰えませんか? このままだと春野さんは苦しむばかりだ」
重治郎と木乃葉は白石の提案に少し考える。暫く考えた後に重治郎がこう言った。
「分かりました。なんとかこちらも使えそうな医者を手配しますゆえ、それまではよろしくお願い致します」
「お願い致します」
木乃葉も正座をして深く深く頭を下げる。奇抜な料理と知識を持つこの男ならなんとかしてくれるのではないかという淡い期待が二人にはあった。白石はそんな二人を見て即座に号令をかける。
こうして白石の看病が始まるのだった。
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