第2話 ぼくという存在

ねこになる前のこと。

ぼくには、前世の記憶がある。




就職に失敗し、家に引きこもっていた。

親からの叱責、世間からの視線、自分の中にある無力さ──

それらに耐える力がなかった。


ただ布団の中で目を閉じ、時間が過ぎるのを待つだけの日々。

夢も希望もない、ただ、ゆっくりと腐っていくような感覚。


たぶん、誰にも気づかれないまま、ぼくは死んだ。



---


次に目を開けたとき、ぼくは猫になっていた。


なぜ猫なのかはわからない。

けれど、不思議と納得していた。

小さくて、弱くて、でも人目を避けて隠れていられる存在──

ああ、これは、ぼくだ。


兄弟たちがひとり、またひとりと段ボールから連れていかれる中で、

ぼくだけは、じっと身を丸めていた。


行かなきゃいけないって、わかってた。

外に出れば、助かるかもしれないって。

それでも動けなかった。

恐怖と無力さが、足を、いや、肉球をすくませた。


──前と同じだ。

ぼくはまた、何も変われていない。


そう思っていた、そのとき。



---


足音がした。

水たまりを踏む、ちいさな音。


「……ねこ?」


優しい声だった。

しゃがみこんだ少女の手は、びしょぬれのぼくを迷いなく抱きしめた。


「こんなに濡れて……寒かったね……」


その体温が、心にまで届いてくる。


ぼくの名を「しらたま」と呼ぶその声が、

しずかに、ぼくの存在を肯定した。



---


それから、彼女の家で過ごす日々が始まった。


日向ぼっこをしたり、転がった毛糸にじゃれたり。

ルナは毎日、しらたま、しらたまと名前を呼んでくれた。


ごはんの時間、寝る前、宿題をしながらも──

まるで、そこに「いてほしい」と願うかのように。


「ねぇ、しらたまちゃん。

明日は何して遊ぼっか?」




(あした──)




そんな言葉、前のぼくには関係のない世界だった。

でも今は、胸の奥が、ほんの少しだけあたたかい。





---


名前を呼ばれるたびに、ぼくの世界が広がっていく。

それは、前世のどんな日々よりも──輝いていた。


ぼくは、人間だったころ、誰かに「生きてていい」と言われた記憶がない。

でも、ルナが言ってくれた。




「しらたまちゃん……ずっと、わたしのともだちだよ」




その言葉が、胸の奥でずっと響いている。



---


ぼくは、猫になった。

でも、ただの猫じゃない。

あのとき、生きる理由をもらった──

それが、「ぼくという存在」なのだ。




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