弐ノ綴冊 ──いつか呼ばれるその日まで

今日もまた、寄り道だ。

と言っても、俺が好きでしてるわけじゃない。

いや、ちょっとはあるけど……

いつもの如く基本的には、巻き込まれてる。


神社の参道は、六月の緑に埋もれていた。

古びた石段には木漏れ日が斑に落ちて、

鳥の声だけが風に乗っている。

境内の空気は、ひんやりと涼しくて、

学校帰りの汗がすっと引いた。


ここに来ると、音が減る。

車の音も、人の声も、蝉さえまだ鳴かない。

“誰かの祈りだけが残ってる”って言われても、

まあ……そんな気がしてくる場所だ。


「……なんで俺だけ、こんな……って、うわ、犬⁉︎」

 

境内裏の小道。人通りの少ないその場所に、

ぽつんと座っていたのは、一匹の犬だった。


柴犬と雑種のあいのこみたいな体格。

小型犬よりやや大きめ。

毛並みはばさばさ、目元はすこし曇っていて、でもなぜか背筋だけはしゃんと伸びている。

 


 ──そして、喋った。


「あら……あなた〜、あの子じゃないわねぇ」


「喋ったああああ⁉︎」


驚きすぎて、思わず境内で叫んでいた。


「なあ! なんか犬が! 犬が喋ったぞ!?

 見ろ、口が、ほら! ふごふごしてる!」


……と、言いながら振り返ると、

そこに記が立っていた。


いつからいたんだこいつ。


無表情のまま、記はぽつりとひと言だけ呟いた。


「……祈声よ」


「あー……うん、わかった。

 ……いや、わかるか!」


犬──いや、祈声は、座ったまましっぽだけを軽く揺らしている。敵意はないらしい。

ていうか、見た目も喋り方も、なんか

おばあちゃんっぽい。


「祈声……ってことは、残った祈り?」


俺が問うと、記はこくりと頷いた。


「じゃあこの犬、なんか未練があるってことか……」

 


俺の言葉を受け取ったのか、祈声がぽつりと語り出す。


「私、ずっと待ってたのよ。誰かを。……でも、

 もう、誰を待ってたのかも、思い出せないの」


「切ねぇなおい……」


思わず声が漏れる。


ボロボロの身体で、そんな風に静かに言われたら、そりゃあ、ねえ。


「……あのさ名前は、なんて言うの?」


「それも、忘れちゃったの。でも──

 名前を呼ばれたかった、ってことだけは、

 ずっと残ってるの」

 


名前を呼ばれたかった。

たったそれだけの祈り。

だから、残ったのか?逆に。


「よし、一緒に思い出そうぜ。お前の名前。

 せっかく喋れんだから」

 

俺はしゃがんで、祈声と目線を合わせる。


「……ポチ? むぎ? はち?

 ……らんまる?文太?」


「違うわねぇ」


首を横に振る祈声。


それもなんだか、優しい動きで、

まるで俺のどうでもいい冗談すら、

全部抱きしめてくれるみたいだった。


「なあ、記も協力しろよ」


「……私がやることじゃないから」


いつも通りの、なんとも言えない反応。

もうちょっと愛想がら有ればな……





「……でもさ、なにか手がかりくらい、

 あるだろ?」


祈声は伏せた目を少しだけ上げて、

鼻先を動かした。


「匂いなら、少し覚えてるかもしれないわね」


「じゃあ、探してみっか。な、記?」


記は無言で頷く。

神社の鳥居をくぐったとたん、祈声の足が止まる。


「……あら、ここ。

 怒られたことがある気がするわ」


「え?」


俺が振り返ると、祈声は鳥居の根元に鼻先を向けたまま、じっと動かない。


「たぶん、ね。

 ここでおしっこして──叱られたのよ。

 “ダメでしょ!チ……”って、強い声で……」


「え?なんか、出かけたろ今。

 “ダメでしょチ”くらいまで言ってなかった?」


「気のせいじゃない?」


くりっと首を傾ける祈声に、

思わずため息が出そうになる。


かわいい。いや、違う。

今は──それどころじゃない。

 


手水舎に差しかかると祈声の耳がぴくっと動いた。そして、わずかに身体を引いた。


「水……苦手なのよ。

 シャンプーってやつ、あれ、

 ほんとやめてほしかったわ。

 ……毎回、ブルブル震えてた気がする」


「……あー……うん。犬って感じだな……」


間を置いて、さらにぽつりとつぶやく。


「しかも完全に飼い犬だな。……首輪とかに名前、 

 書いてあったりしないのか?」


祈声はくすりと笑った。


「してなかったと思うわ。たぶん。

 でも、洗ってくれる人の声だけは……

 あったかかった気がするの。

 “大人しくして、チ……”」


「──チ⁉︎ 今、チって言った!

 出かけてたぞ、明らかに!」


「ごめんなさい、思い出そうとすると……

 ぬるんって、どっか行っちゃうのよ」


俺は一瞬、言葉の意味を噛み砕こうとして──

やめた。


「……擬音が気持ち悪いな」


「脳のバグね」

いつの間にか隣に立っていた記が、静かに言った。


「そういうものかしらねぇ」


祈声はのほほんと尻尾を振っている。

まるで、なにもかもが解決したような顔だ。


俺はひとつ、深く息を吐いた。


──だめだ。このメンバー、

まともなの俺しかいない。


 



最後にたどり着いたのは、大きな御神木の根元、

日だまりが落ちるその場所に、犬は自然と座り込んだ。


祈声は、そこに向かって迷いなく歩き、

ぺたんと座った。

まるで、身体が覚えていたみたいに。


「夕方になると、ここで一緒におやつ食べたの。

あの子がね、分けてくれるのよ。キチンと半分こ。

……チョコレートだったかしら。甘くて、すこし溶けてた」


「……名前、思い出せそうか?」


「ううん。でも、“名前を呼ばれる”って、

 あの時間に戻れる気もしたの。

──あったかくて、少しだけ、甘い」


その声に、記がちらりと目を向けた。

でも、何も言わない。


「なんだよ、言いたいことあるなら言えよ」


「……今じゃない」


なんなんだ、この会話。

 


風が、祈声の耳を揺らした。


「そういえば、お名前、聞いてもいいかしら?」


「……どどどうま・いわお」


俺は答えるなり、うつむいた。


「笑うなよ」


間があった。けれど、

祈声の反応は笑いじゃなかった。


「まあ、立派。昔の男の子って感じね」


俺は口調が尖っていた。


「親父がさ、昭和のど真ん中で育ったやつで。

 “男子たるもの強くあれ”だの、“名前に威厳を”

 だの、そういうクッソ暑苦しい理屈で……

 それで、これよ」


「可愛いじゃないの」


「ぜんっぜん可愛くねぇよ!」


思わず立ち上がっていた。


「小学校のころなんて、“どどどーん”とか

 “どどすこ”とか言われてさ。

 呼ばれるたびに笑われて、いっそ名前なんて要らないって──」


そこで言葉が詰まった。


祈声は、ただ静かにこちらを見ていた。

どこも責める目じゃない。

けれど、なぜか、胸の奥がチクリと痛んだ。


「……なんか、さ」




祈声は、ゆっくりと尾を振った。


「だから──届いたのかもしれないわね、

 あなたに」


「……なんで俺なんかに」


「あなたの名前、自分のじゃない気がしてたんじゃない?」


その言い方が、妙に沁みた。

図星を突かれたみたいで……

 


「……ま、な。

 今さら、名前に文句つけても仕方ないし」


俺はポケットに手を突っ込んだ。

 


「でも、“どどすこ”って呼んできたやつらは、

 今でも嫌い」



「ふふっ」


祈声が、少しだけ口を開けて笑った。


なんてことない笑顔だったのに、見ているうちに胸が少しだけ軽くなった気がした。


──そうだ。


俺はずっと、自分の名前が嫌いというか

しっくりこなかった。

でも、それを笑わずに聞いてくれる誰かは

今までいなかった。



 


空気は澄んでいて、どこかひんやりしている。

境内を吹き抜ける風が、木々の葉をゆるやかに

揺らす音だけが響いていた。


「……わたしね」


ぽつりと、祈声が言った。


その声には、さっきまでの軽やかさがなかった。

水の底から、ひと粒だけ浮かび上がってくるような、そんな声だった。



「名前を、呼ばれたかったの。

 ずっと……誰かに、もう一度だけでいいから」


俺は何も言えなかった。

黙って、祈声の横顔を見つめていた。


「誰かに大事にされていた気はするの。でも、

 その人の顔も、声も、思い出せない。

 名前も、もちろん」


祈声は、目を細める。


なにかをたしかめるように、ゆっくりとまぶたを伏せた。



「──だけど、呼ばれた記憶だけは、

 どうしても消えなかったの」



胸の奥に、淡く何かが灯る気がした。


「……名前ってさ」


俺は、少しだけうつむいたまま言った。


「そんなに、大事か?」



「大事だった。

 だって、わたしが、わたしだったって証明になるもの」


 

その言葉に、俺は目を見開いた。


「名乗られなければ、知られなければ、

 誰かの世界に、自分はいなかったことになってしまう」


 

声は静かで、あたたかかった。

でも、そこにある寂しさは、きっと俺だけが気づけたんだと思う。


記が、かすかに歩を進めた。

境内の土が、さらりと鳴る。

足元にある綴冊を、静かに拾い上げ──

ページを開く。


「……そろそろね」


「……何が?」


記は答えず、ページを一枚だけ、

音もなくめくった。


風が、少しだけ吹いた。

その中で、記が、静かに口を開く。

 


「──チロ」


俺は、はっと祈声を見た。


「……え、知ってたの!? ちょ、

お前さっきから黙ってたくせに!」


記は無表情のまま、言った。


「結果より、過程が大事なときもあるでしょ?」


「ぐ……っ、ぐぅ……!」

 

ぐうの音は出たけど、ぐぅの音も出ない、

とはこういうことを言うんだろう。


俺は拳を握って、くやしさを噛み殺す。


 


 ──でも。


 


“チロ”という名前を聞いた瞬間、祈声の表情が、

ふっとほころんでいた。


その顔が、すべてを物語っていた。


 





空気が、すっと静まった。


いつの間にか風は止み、葉擦れの音さえ消えていた。

境内に降るのは、まばゆい光と、遠い昔の気配だけ。


記がゆっくりと歩を進める。

左腕には綴冊。儀式の準備は、もう終わっていた。


 

祈声は、名を取り戻したあとも、何も語らない。

ただ、小さく尾を揺らしながら、記の方を見つめていた。


自分が、どこへ還るのかを知っている顔だった。


記がそっと目を閉じ、静かに言葉を紡いだ。


「──“いつか呼ばれるその日まで”、綴括。

 その祈り、名を持ちて──永劫の静寂へ」


 

境内の空気が、深く、深く沈んでゆく。


そして──


祈声の身体が、淡い光の粒に変わり始めた。

まるで朝霧がほどけるように、輪郭がふわりと崩れてゆく。


耳、鼻、しっぽ、声──


そのすべてが、名を取り戻したことで、

ようやく還る場所を見つけたのだろう。


光の粒が空へ昇っていく。

その中に、かすかに言葉があった。


「ありがとう。ようやく……呼んでもらえた」


それは、確かに“チロ”の声だった。

俺は、ただその姿を見つめながら、胸の奥でぽつりと呟いた。


「……またな、チロ」



 


 

チロが消えたあと。

そこには何も残っていなかった。


光も声も、風の音さえ、いまはただ名残のように空気に漂っているだけだった。


──新たな朱赤の文字が、にじむように浮かび上がった。


 

『奉綴──

 名にて 呼び交わすこと 一度きり』


「……今日の奉綴は、“お互いの名前を一回ずつ呼び合う”だって」

記がそう訳してくれた。


「なんだそれ……そんなのが“清算”かよ」


俺はつぶやいたけれど、本気で嫌というわけじゃなかった。むしろ、なんというか──ちょっと、照れくさかった。


記は、ほんの少しだけ口元を和らげた。


俺は肩をすくめて、息を吐いた。


「……ったく、こういうの苦手なんだよな」


小さく間を置いてから、俺は言った。


 

「……記」


記は目を伏せて、微かに頷いた。

そして、名前を返す。


「巌」


風が、ふっと吹いた。


まるで、見えない誰かがその瞬間を見届けたかのように。

綴冊のページが、音もなく閉じられた。


 


 

帰り道、俺と記は、並んで歩いていた。

さっきまでの儀式の余韻が、鼻の奥に残っている気がする。

チロのことも、名前のことも、何もかもが心の底に沈んで、静かに波紋を広げていた。


俺は、ふと思ったことを口にする。


「……ずるいよな、あんなの。

 嫌いでも、大事になっちまうじゃんか」


記は何も言わない。

それでも、歩く足を少しだけ緩めてくれる。


「でも、誰にも呼ばれなかったら──

 そこにいたことさえ、なかったみたいになる。

 ……そんな気がした」


そのとき、記がようやく口を開いた。


「“名”は、“在った”という証だから」


静かな声だった。

だけど、その言葉は、俺の胸にすっと入り込んでくる。


 

「……ま、呼ばれると恥ずかしいけどな」


 

俺がそうつぶやくと、記がふっと顔を上げて、こちらを見た。そして、何でもないような顔で言う。


「でも、ちゃんと呼ぶわ。い・わ・お」


「今言うなって!」


思わず声を上げて、顔を背ける。

背中に響くのは、微かな笑い声だった──かもしれない。

 

空は橙。風はやわらかい。

呼ばれる名前の重みが、今日はほんの少しだけ、

心地よかった。

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