参ノ綴冊 ──きみが笑った、あの場所を
空気が、息をひそめている。
日が落ちかけた頃。
解体予定の地方モールは、どこかおかしな静けさをたたえていた。
風の通り道も、カラスの声も、消えている。
巌は、がらんとした駐車場を見渡しながら、
つぶやいた。
「……いかにも、なんか出そうだな、ここ」
返事はない。
ちょっと前を歩いてる記は、ぴたりと立ち止まり、じっとモールの奥を睨むように見つめていた。
扉は開いてる。鍵もぶっ壊れてる。
でも──気配がない。いや、なさすぎる。
「元ショッピングモール。駅前開発に失敗したやつな。でかいくせに客がいない。稼働してた時からほぼ廃墟。今月中に取り壊しだってさ」
俺がしゃべってる間も、記は無言のまま。
けど──彼女の手の中の「綴冊(てっさく)」が、ふっと揺れた。
「……記?」
記は、目を伏せたまま一言だけ呟いた。
「いる」
たったそれだけ。
でも俺には、それで十分だった。
いる。
つまりここに、“まだ残ってる”ってことだ。
誰にも届かなかった祈り。
置き去りにされた想い。
それが──この場所に、結晶みたいに残ってる。
俺たちは、モールの中へ足を踏み入れた。
店は全部シャッターが降りてて、照明は点いてない。
なのに、中央広場のステージだけが──
不自然に明るい。
絨毯が剥げて、パネルが傾いた子供用の舞台。
割れたスポットライトと、垂れ下がったカーテンの残骸。
でもそこだけ、なぜか“生きている”感じがあった。
「……ここかな?」
俺がそう言った直後──
ズオオォォォン!!
爆音のファンファーレ。
回転する赤と青の光。
思わず身を引くと、舞台の上に何かが跳ね上がった。
「Ladies and Gentlemen and 誰でもいいから見
てってくれ!!」
そいつは──ピエロだった。いや、パペット。
くすんだ色のボディ、縫い目だらけの顔、大きすぎるボタンの目。
それが、でかい声で叫んだ。
「名乗るほどの名じゃねぇが──このオレこそが!
DUMB OF CHICKEN!!」
耳をつんざくような自己紹介。
そのまま、訳の分からないテンションで、そいつは踊り回り、火吹きのマネをしながら舞台を駆け回る。
「さあ! 泣く子も笑え!
ていうか、オレで笑え!
今日もぜったいスベらせねぇ!
なぜならここに──観客がいるからッ!!」
……そんなはずも、なかった。
実際には、俺と記しかいない。
しかも記は、完全に無表情。
俺は──笑うに笑えなかった。
「……なんだこりゃ」
呆然とした俺の隣で、記の綴冊が、またカサリと鳴った。
─
DUMBは、誰にともなく叫びながら、また舞台に躍り出た。
ぐにゃぐにゃとした体でジャンプし、ありえない方向にひねった関節でポーズを決める。
「やるぜ! 今夜のためのスペシャルギャグ──
“だるまさんが転んだ選手権”!」
DUMBはくるりと背を向けて、
「だるまさんが……転んだッ!」と叫ぶ。
ピタッとポーズを決めて、振り返る。
「動いたの誰だァァ!? ……って、
オレオレオレオレオレだぁーっ!!」
バタンと倒れこみ、ひとりでウケて、
ひとりで立ち上がる。
沈黙。
巌の表情が、どこか居たたまれないものに変わる。
記は無表情のまま、微動だにしない。
「──くっ……ウケねぇな……!」
DUMBはうずくまり、ぐらりと立ち上がった。
「なら、あのネタだ!いや、もっと派手なのいくか!火吹き芸!火吹けないけど!」
DUMBは舞台袖から、どこかで拾ったラッパを持ち出し、盛大に「ブー!」と鳴らした。
続いて逆立ち未遂。回転。急停止。
──誰も笑わない。
「……もっと、やらなきゃ。まだ、足りない……」
目が虚ろだった。
DUMBは、どこにもいない観客を見つめていた。
巌がようやく口を開く。
「なあ、お前……何やってんだよ。誰に笑ってほしいんだ?」
DUMBは、その問いに少しだけ黙った。
やがて、ぽつりとこぼす。
「……“面白いから好き”って言われたんだよ。
昔、ひとりの子どもに」
その声は、どこか遠くの方を向いていた。
「それが嬉しくて。ずっと、そうであろうとしてた。
だって……面白くなきゃ、好きでいてもらえないでしょ?」
巌は目を伏せた。
「……そんなの、お前の役目じゃねぇだろ」
DUMBはゆっくりと首を振る。
「違うんだ。オレはパペット。動いてナンボ、喋ってナンボ。
しゃべれなくても、笑わせれば、価値がある。
だから、笑わせ続けなきゃいけないんだよ。じゃなきゃ──
オレが、ここに残ってる意味がない」
祈声としての本音が、じわじわとにじみ出ていた。
巌は、苦い顔で記に目をやる。
記は綴冊をそっと撫でていた。
「記……お前、もう見えてんのか?」
返事はない。
だが、少女の指先が、綴冊の角をほんのわずかにめくる。
封じの一歩手前。
静かに、祈声の“芯”を見定めているのがわかる。
巌が言う。
「なあ、もし“面白くなくても好き”って言われたら……それでも、ここにいたいって思うか?」
DUMBはピクリと肩を揺らした。
しかし次の瞬間、顔を背けて叫ぶ。
「言われてないから、そんなの関係ないッ!!」
叫びは虚空に響き、モールの広い空間を震わせた。
照明もないステージ。
観客もいない客席。
その中心で、DUMBの動きが、次第に止まり始める。
「──でも、もしも、そんなふうに思ってくれるヤツがいるなら……
オレ、ほんとは……それだけで……」
声が震えた。
巌も、もう何も言えなかった。
代わりに──記の綴冊が、音もなく開かれた。
⸻
巌は、リュックに手をかけながら、少しだけ声を和らげて言った。
「なあ……お前さ、誰のために笑わせてたんだよ?」
DUMBの手が止まった。
「“あの子”のためだよ。“面白いから好き”って言ってくれた子のため。
またどっかで会えたら、あのときみたいに──」
「ほんとに、それだけか?」
巌は、言葉を選びながらも踏み込む。
「だって、待ってたんだろ?
誰もいないモールで、ずっと一人で。
もう、その子が来るわけないってことくらい、
分かってただろ?」
DUMBの顔が動かない。
でも、ボタンの目の奥で、何かが揺れたように見えた。
「……なあ、DUMB。
誰かに笑ってもらいたかったんじゃなくて──
“笑えなくても、お前はお前でいい”って、
そう言ってもらいたかったんじゃないか?」
沈黙が落ちた。
舞台の上で、DUMBは動かない。
さっきまでギャグを連発していた身体が、まるで人形のように固まっていた。
……長い、長い時間が流れる。
そのあとで──
まるで胸の奥をひとつずつ言葉にするように、ぽつりと呟いた。
「……うん。
たぶん……“笑わせなきゃダメ”って、
ずっと自分に言い聞かせてたんだ。
でもほんとは──
そんな自分を、やっと許したかったのかもしれない」
DUMBが、崩れ落ちるように、
その場に座り込んだ。
「ぅえ……あ゛っ、あ゛あ゛あ゛あ゛……!!」
突然、壊れたスピーカーみたいな音を立てて泣き始めた。
「ふえっ、ひぐぅっ、ぺぼぼぼ……んあ゛あ゛あ゛~~!!」
誰かに見せるつもりもない、遠慮ゼロの泣き声。
しゃくりあげるたびに変な音が混じる。
鼻が鳴って、口が変なカタチになって、
ほとんど叫びながら、泣いている。
そのあまりの“全力泣き”に、巌が絶句していると
──フッ。
ほんの一瞬。
隣の記が、鼻で、微かに笑った。
笑い声ではない。
声にならない“吹き出し”のような音。
でも、それはたしかに──笑いだった。
気づいたDUMBが、顔を上げる。
「……い、今の! いま、鼻で笑った! 見た! 見たぞ!!」
顔はぐちゃぐちゃ、目はボタン、でも叫びは本気だ。
「や、やったぁあああああっ!!
笑った! また笑ってくれたぁぁああああ!!」
ボロボロに泣きながら、DUMBは笑う。
泣き声と笑い声が混ざって、何がなんだか分からない。
でも、それが本当の“感情”だった。
舞台の空気が、少しずつ、変わっていく──
記の手の中で、綴冊のページがふわりとめくれる。
祈りが、ほどける準備を始めた。
⸻
記の筆が、綴冊の白紙にスっと滑る。
一文字、また一文字。
その筆跡が祈りの“本質”を言葉にしてゆく。
筆先が止まったとき、周囲の空気がふっと沈んだ。
「──“きみが笑った、あの場所を”、綴括──
その祈り、名を持ちて、永劫の静寂へ」
舞台の空気が──息をひそめた。
誰もいないモール。誰も座っていない観客席。
その全てが、一瞬、まるで拍手を送るように静かになった。
「……マジかよ……泣き顔で笑わせるとかさ、
どんだけ最高に、ダサくて、カッコ悪いんだよ、オレ……」
その声は、どこか満ち足りていて。
ずっとずっと探していた拍手を、ようやく受け取ったような音だった。
その体が、光の粒になって、ほどけていく。
ボタンの目。破れかけたステッチ。伸びた布の手。
それらが、少しずつ、やさしく空へと溶けていく。
まるで、最後の笑顔だけを残して、
役を終えた“役者”が幕を降ろしていくように──
「……あいつ、最後までピエロだったな」
記が、ほんの少しだけ首を振った。
「……ちがう」
「ん?」
「最後のは、芸じゃなかった」
風が吹く。
それは、誰かの拍手みたいに、やわらかく。
──そのときだった。
綴冊のページに、朱の文字がふわりと浮かび上がる。
記がそれを見て、筆を止めたまま、静かに読み上げた。
「奉綴──
操りの糸、ひとすじ。
風に解けよ。
そして、“笑わずに見届けよ”」
その言葉に、俺は反射的にリュックを漁る。
正直、どんな供物だって、いまのオレなら出せる気がした。
だけど──
「……ないぞ、そんなの。糸なんて……」
呟いたそのときだった。
風がふっと吹いた。
そして、舞台の片隅で、何かが揺れた。
「あれ……?」
舞台袖。照明のコードにまぎれて、一本の、古びた“操り糸”が風にたなびいていた。
誰にも繋がれていない。誰も動かさない。
でも確かに、それは存在していた。
俺はそれをそっと拾い上げ、記に手渡す。
記は黙って頷くと、それを両手で包み込むようにして、静かに舞台の上に戻った。
すでにDUMBの姿はない。
ただ、誰もいないステージに、風だけが残っていた。
記は舞台の中央に、操り糸を一筋だけ置いた。
まるで、それがDUMBそのものだったかのように。
風がまた吹く。
糸が、するりとほつれた。
まるで、見えない手が、やっと彼を“役目”から解き放ってくれたみたいだった。
──笑わなくていい。
──もう、動かなくていい。
──それでも、ここにいてよかった。
「ほんとうは……ずっと、そう言ってもらいたかったんだと思う。
“笑わせなくても、ここにいていい”って──
誰かにじゃなく、自分自身に」
記が戻ってくるころには、廃モールはただの“廃墟”に戻っていた。
風の音だけが鳴っている。
ステージも、祈声も、もうここにはいない。
俺は息をついて、ベンチのパイプに背を預けた。
「誰かに笑われるためじゃなくて──
ただ、自分が自分を許せるように、
笑ってみせてほしかっただけかもな」
風が、糸をひとすじ、さらっていく。
そこにはもう、誰もいない。
でも、確かに誰かが、ここで“終わり”を受け入れたような気がした。
記は、静かに言う。
「……なら、もう無理に頑張らなくていい」
その声は、まるで誰かの背中をそっと押すみたいに、やわらかく、静かだった。
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