第8話 東京へ——変わりゆく私の気

嗣実は早起きだ。


朝のおつとめや敷地の巡回など、仕事もあるが、

庭や畑の手入れも早くから行動する。


佐知が嗣実の寝室で目を覚ました時、すでに彼は1日の日課を始めていた。


佐知は、寝具の嗣実の香りに浸りながら、夕べの余韻を噛み締め、幸せな気分になっていた。


たぶん自分は嗣実と結婚する。

龍の繋がり。

そして、この素晴らしい田舎に住む。

なんてしあわせなんだろう。


だけど私、何をすればいいのかしら?


龍の姿は見えたけど、だからといって嗣実のように神事が出来るわけでなく、龍の声も聞こえない。


(私って、何か役に立ってる?)


休暇楽しんでるだけだよね、今のところ。

神社の手伝いはしてるけど、とりあえずやらせてもらってるだけよね。

みんなに良くしてもらってるだけな感じだよね。


(うーん、とりあえず、朝ごはんを作ろう)


佐知はそのうち一旦帰ってくる嗣実のために朝食の準備にかかった。


食卓に皿を並べていると、この前、修に言われて電源を入れていた携帯電話にメールが来ているのに気付いた。

夕べ、二人が寝室に入ってから、電話も鳴ってたみたいだ。


(会社からだわ…?)


仕事のことなどすっかり忘れていたが、ふと現実に戻された気持ちになり、メールを開いた。


(呼び出しかー)


休職前に手掛けたクライアントからの新しい仕事が、佐知を指名。どうしても譲らないので出社してほしいとのことだった。


____


「受けたら、2ヶ月は戻ってこれないわ」


朝食を取りながら、佐知は嫌そうに言った、


「でも佐知がやるべき仕事なんだね?」


「………」


まるで子供みたいに拗ねているような自分自身がもどかしい。嗣実と一緒に居たい。離れるのは嫌だ。ここに居たい。


「佐知、私と龍が常にそばに感じられるように、御守りを作ろうか?」


「御守りを作る?」


嗣実は佐知を連れて、神域の森に入っていった。

参道の氣の柱である杉は、その周りの森に実を落とし、その子孫を残す。嗣実は自分の背の高さくらいの杉を見つけ、小刀でひと枝落とした。


そしてそのまま削り、小指ほどの小さな木切れに仕上げた。


二人は神殿にその木切れを手向け、祈祷する。


守り祓いとなったお札を丁寧に薄い和紙で包み、

細筆で護符の文字を入れ、天倉神社の小さな御守り袋に仕舞う。


「嗣実さん、ありがとうございます」


佐知は、こんな心のこもった御守りがあるのを初めて知った。

御守りを手で包みこむと、ふわりと温かく感じる。


「佐知が良い仕事が出来るように。ここで待ってるよ」


不思議と、本当にいい仕事が出来るように思う。

待っていてくれる人がいる嬉しさも、いろんな不安を消し去っていく。



「週明けに出社します」


佐知は迷いなく、会社に連絡をした。


____


久しぶりの実家だった。

都内の高層マンションの窓から、ぎっしり詰まった灰色の建物を見渡す。アイボリーに統一されたインテリアのリビングは余分なものは無くてスッキリしている。


美しく整えられているはずなのに、違和感。

佐知が感じるものだった。


佐知によく似た、すらっと姿勢の良い上品な母、京子は、グリーンの花模様のカップで甘い香りの紅茶を運んできた。


「まったく、長期休暇はいいけど、アパートまで引き払ってたなんて。」


「一年戻らないと思ったら、勿体なくて。」

佐知は熱い紅茶をすすった。


「真斗に聞いたけど、田舎の神社にいるんですって?」

「神社で奉仕でもしてるの?」


京子が矢継ぎ早にありきたりな質問をしていると、宅配の荷物が届いた。

「あ!私の荷物だわ」

佐知は嬉しそうにダンボールを受け取って、開け始めた。


「何?野菜?」


京子が不思議そうな顔で様子を伺っている。


「ええ。私のお世話になってる神社の畑で取れたものよ。卵も!…あ!パンもコーヒーも入ってる!」



「お昼まだでしょ? 私が作るわ、ママ。」


怪訝そうな表情の京子を横目に、佐知は初めて嗣実が作ってくれた、村のパンのサンドイッチを作った。

(水も送ってくれたんだ…)

ペットボトルに数本、湧き水も入れてある。

昨日、嗣実と一緒に東京へ送る荷物を作った。

配送業者に持って行ってくれた時、いろいろ足してくれたんだ。佐知は今朝別れたばかりの嗣実がもう恋しくなってしまった。


湧き水でコーヒーを淹れながら、しんみりしていると、京子が台所にやってきた。


「いい香り。パンも野菜も美味しそうじゃない?」


「私が手伝ってる畑の野菜なの。とにかく、ほんとに美味しいのよ」


「佐知がそんなことするなんてね。」


京子はサンドイッチとコーヒーの昼食を食べ、

「普通なのに、普通じゃない美味しさ」

と表現した。

佐知は「そうだね」とクスッと笑った。


「…じゃあ2ヶ月くらいはここにいるのね。パパも2週間くらい先に帰ってくるから、久しぶりに会えるの喜んでたわよ。」

「真斗も呼んで、食事でもしましょう。…あ、あなたの彼氏はどうなの?」


「あー、別れた」


「え?そうなの?」


佐知は嗣実のことを話そうか少し迷ったが、父親が帰ってからでもいいかと思い直し、黙った。

京子は別れたと聞き、何か言いたかったが、こちらも黙った。


「明日から出勤するから、忙しくなるかも。遅くなる時は連絡するね。しばらくよろしくお願いします。」


____


久しぶりの満員電車。

嗣実に朝の挨拶をメールして、佐知は数ヶ月ぶりの会社へ出勤した。


明るく近代的な社屋。出社してくる社員もそれぞれに自由な雰囲気。会社での公用語は英語。日本人同士は日本語で話すが、みんな2ヶ国語以上ができる。


佐知はシャツにパンツスタイル。以前と同じような格好でデザインチームのオフィスに入った。

嗣実に作ってもらった御守りは、細いチェーンで首から下げ、白い小さな袋は左胸に収めてある。

右手で胸に手を置くと、龍と嗣実が感じられる気がした。


「佐知!」


同僚の春田舞が駆け寄ってきた。

「久しぶり!…ん?なんか雰囲気変わった?」


「久しぶり。そうかな?…で、早速だけど来てる案件、すぐ取り掛かりたいの。いいかしら?」


わかった、ありがとう、と佐知をミーティングルームに案内する。


佐知が来たので、UXデザインチームの5名が今回依頼された件を説明した。


前回と同じ、大手医療グループ傘下の在宅医療・ホスピス支援会社からの依頼。

上層部が「以前あなたが手掛けた福祉系UIが非常よかった」と佐知を指名してきた。


「オッケー。こちらに戻る前に、要件定義、調査分析までは春田チーフに聞いています。早く完成させるために、来週中にワイヤーフレームまで持っていくつもりです。」


休職する前から、佐知は仕事が的確で若い社員から憧れを持って見られていた。


しかしこの数ヶ月で、佐知自身も以前とは全く違う感覚になっていることに気付いた。


邪なものを撥ねつけるような氣を纏っている。


佐知が戻ってきたおかげで、チームは焦っていた雰囲気や不安な要素が無くなっていた。


ただ、今回はそれだけでない。佐知がいるだけで全てが整い、各々が本来の姿に戻るような空気になっている。


なぜか、この案件はもう大丈夫だという確信が、不思議と全員の心に芽生えた。




「佐知、今どこにいるの?放浪の旅はうまくいってるの?」

昼休み、休憩室でお茶を飲みながら佐知は春田舞と会話していた。


「うん、自分の居場所を見つけたわ。早くそこに戻りたくて」


「来たばっかりでもう?」


佐知はクスッと笑って、頷いた。


(……あれ?)


舞は言葉にできない違和感に、無意識に目を細めた。



佐知の周りだけ、空気の粒が細かく揃っているような、不思議な清涼感がある。

視線を合わせた瞬間、瞼の奥に風が通り抜けるような気がした。



「そういえば佐知、生島と別れたの?」


「え?…あぁ、そうなの。区切りをつけたというか…。修とは馴れ合いだったから…」


「そっか。日向さんとの噂もあったしね。」

「今も確かロス出張中だと思うよ」


春田は天井を見上げながら言う。

それからすぐに佐知をじっと見て、


「で?新しい恋が始まった?」

と、いたずらな顔で聞いた。


「ふふ、わかる?」


「ほんとにー? 」

「…ていうか、佐知すごく変わったわよ。あのね、オーラでてる。」


「え?何それ?」


二人は賑やかに笑った。


「でもね、私自身もここに来てわかった。彼といることだけで、本来の自分になっていたんだって。」


佐知は遠く嗣実のことを想った。


「またゆっくり話すわ。すごく素晴らしいところに住んでるの。早く帰りたくて。」


「だから、来たばっかりだって!来週までやり切って、週末は飲みにいくわよ。」


そうね、私なぜかいい仕事が出来ると思うの。

佐知は心の中でそっと呟いた。


____


2週間が過ぎ、佐知は連日の残業、休日出勤を経てwebの設計をまとめ上げた。


「……で、佐知さんがこのワイヤー作ったんですか? なんか、空気違うなって」

若手の一人が、言葉を選びながらも不思議そうに声を上げた。


「そうそう、レイアウトとか動線が無駄に見えるのに落ち着く感じがする……なんか、空白が心地いいって初めて思った」


「私も。余白の気配感があるんだよね。あえて余らせてるのに、情報はちゃんと伝わる、みたいな」



春田がふっと笑った。

「佐知の設計の"気"じゃない?本人、やたら整って戻ってきたし」



「あの子、休暇先でなんかすごいもの持って帰ってきたわね。」


そこに居るだけで、空気を変えてしまう。

佐知の案件だけでなく、チームの仕事がスムーズに動いている。


(これ、社の上層部に目つけられちゃうなー)


佐知、長期休暇に戻らせてもらえるかな?と春田は少し心配した。


一方、佐知は、毎晩クタクタになって仕事に専念しているが、寝る前や朝に嗣実と顔を見ながらの電話で、癒された。


「以前より社内の雰囲気が良くなってると思うし、仕事も順調なの。早く終わらせて、嗣実さんところに戻りたいわ」


嗣実はいつも笑顔で、


「待ってる」


と言ってくれる。それだけで頑張れた。




海外出張から帰宅した佐知の父、健一は、久しぶりに娘に会った。長男の真斗も呼び出し、何年かぶりの家族4人の食卓だ。


その日は嗣実のところから、畑の作物などがまた送られて来ていたので、佐知は嬉しそうにそれらを調理した。

嗣実の母、佳代子が作る味噌でいろいろな野菜を入れた味噌汁も作った。


(やっぱり美味しい…)

あの土地の香りがする。


以前より穏やかで満ち足りた顔をした娘に、健一はもう、堅苦しいことを言う気にはなれなかった。


佐知が帰ってから、妻の京子もなぜか機嫌がいい。

顔を合わせれば小言や嫌味を言ってみたり、良いところへ嫁に行けなど、そんなことしか話をしなかったが、佐知と楽しそうに夕飯の準備をしている。


佐知の居候先から送られてきた食材はどれも美味しい。


「普通なのに、普通じゃない美味しさ……ママがそう言うのもわかる気がする」


「ははは、確かに特別上等って感じじゃないけど全部美味いよ。」

真斗も美味い美味いと言いながら、よく食べる。


「パパ、これは私が作ったカワマスの燻製。この地酒とよく合うから食べてみて」


仕事柄、高級料亭での会食が多い健一は、この食卓こそが本来の家庭の姿なんだろうとしみじみ思う。


(知らぬ間に忘れていた時間だな…)


佐知にお酌をしてもらい、地酒という瓶を眺めた。


「美しいラベルだな。」


白銀の龍が天に昇る絵を見ながら、「ええ」と佐知は龍に会えた日のことを思い浮かべた。


佐知は知らなかった。

あの山の空気が、あの人の静かな手が──

こんなにも、自分を整えていたことに。


(嗣実さんと過ごした日々が、私を整えたように、私もここにあの場所の心地よい秩序を持って来ているのかもしれない)


…それならば、どこにいてもきっと、迷わない。


佐知は胸に忍ばせた小さな御守りに、そっと手を当てた。






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