第7話 龍の滝と幼き記憶の秘密
「龍を見たのですか?」
早朝、佐知と鶏小屋に入り、卵を拾っていた嗣実は、驚いた声を出した。
「あ、見たというか、もしかしたらあれが龍だったかも?って感じかな?」
佐知は、ここに来る前に湯治に行っていて、そこの池で浮かび上がった白い影のことを嗣実に話した。
「言ってませんでしたっけ?」
初めて聞いた顔をしている嗣実に、佐知は軽く流した。
「その龍みたいな影が、こちらの方角を向いていたので、ここに旅してみることにしたの。」
「そうしなさいって、言ってくれる人がいて。」
佐知はチラッと嗣実を見て
「あ、年配の女性ですよ、それは。」
と、クスッと笑った。
嗣実は少し考え事をしたような表情だったが、すぐ普通に、いくつかの卵を籠に入れて、佐知と小屋の外に出た。
「卵かけご飯にしましょう」
「めちゃくちゃ贅沢ですね」
昨夜、お互いの気持ちを確かめ合った二人は、
まだぎこちなかった。
しかし、龍の影の話を聞いて、嗣実は、佐知が本当に龍に導かれて来たのだと確信する。
そして、時々やってくる"予感"を感じた。
「佐知、仕事が一段落したら、龍須川の上流に行きましょう。」
上流は途中から車は入れないので、山歩きの服装で行くと言われ、佐知は準備して嗣実の車に乗り込んだ。
山道は、合歓の木の花が満開だ。
小さな赤い羽のようなふわふわの花が山を彩り、夏の気配がしている。
車を降りて滝まで歩く途中も、夏の草木が美しい。
もともと、山間の村なので、山の神を祀っており、祠のある川の上流には滝がある。
二人が其処に着くと、昼の光は真上から降り注ぎ、落ちる滝の水飛沫に反射して、濃いツツジ色に包まれている。
(うわー、すごいマイナスイオン…)
滝壺はそれほど大きくはないが、神秘的な滝と滝壺に感動して、佐知は深呼吸した。
「気持ちのいいところですね」
「いいところなんだけど、虫や蛇や蜂もいるから一人では来てはダメですよ」
ああ、自然てそうよね、と、街育ちの佐知は蛇と聞いてゾッとした。
「一見、綺麗なんだけど、澱みがあるんだ。」
そう言われると、確かに、淵の辺りに歪んだような影が見える。
「佐知はわかるよね」
「ええ、たぶん…」
嗣実はニコリと笑顔になった。
「幼い頃、一人で来て、大騒ぎになったこともあるんだよ」
「まさか、落ちたとか…」
「落ちなかったのだけど、」
「ここで見つかった、みたいな。」
「ここも、龍が浮き上がってくるんだ」
佐知はどきっとして、嗣実と一緒に滝壺を見た。
嗣実は立ち上がり、滝壺に一礼して手を合わせた。
不思議だ。
————-時間の感覚が無くなる。
木の葉が揺れる風の音、様々な鳥の囀り、滝の落ちる激しい水の音、、、無数の音が聞こえているはずなに、何故か全てが止まったような気がした。
「あ……」
佐知は嗣実の腕に捕まった。
滝壺の底に、明らかに何かがジワリとやってきた様子を感じたのだ。
二人は黙ったまま、それを見つめる。
底から徐々に浮き上がる白い影は、佐知が湯治場で見たあの影と同じだと思った。
何かが来る!
そんな気配がする。
(あれは、やっぱり龍だったの……?)
湯治場の池の記憶が甦る。
佐知は畏れとはこういうことをいうのだと震えた。それに気づいた嗣実は佐知の肩をしっかり抱いて支える。
「大丈夫。離れないで。」
嗣実が迷いのない声で言う。
影はどんどん上がってくる。
滝壺の周りは、強い結界が張られたようで、気が震える、揺れる。
二人は全身の毛が逆立つような気の流れに当てられる!
水の底からゆっくりゆっくり浮き上がる白い影を、佐知は瞬きも出来ずに見ていた。
フッと、全ての音が遮断されたような瞬間、
眩いばかりの白銀の鱗を纏った、巨大な龍が水の中から天へと昇った!
龍は螺旋を描きながら、まるであの参道の捻り杉、、氣の柱ののように、光り輝きながら、
二人の目の前を駆け抜けて行った。
それは一瞬の出来事だったのか、どのくらいの時間だったのか、まるでわからない。
龍を見たその時間より、去っていってから立ちすくんでいた時間の方が遥かに長かったかもしれない。
二人は長い時間、龍が昇って行った空の彼方を見上げていた。
(魂が抜けたって、こういうことね……)
佐知はやっと、我に帰り、嗣実に寄りかかった。
「大丈夫ですか?」
「…大丈夫じゃありません…」
嗣実は、力の抜けた佐知を支えながら、笑っている。
「どういうことですか?」
ムッとした顔の佐知を、嗣実は笑顔で抱きしめた。
「佐知と龍に逢えたのが嬉しくて」
嗣実は滝壺の近くの岩に佐知を座らせ、自分も横に並んだ。
「やはりあなたは私が待っていた人だった」
嗣実は佐知の手を握って、
「子供の頃、神隠しにあったんだ」
滝壺を見ながら淡々と語りだした。
幼い頃から、白銀の龍の夢をよく見ていたのだという。
龍は、天倉神社の神域を高く低く泳ぐ。
夢の中で嗣実は龍に触れ、龍の泳いだ後の空気が美しく秩序だっているのを感じる。
「夢で龍を見る事は、特に隠しているわけでもなく、この神社の宮司になるからなんだなと言われてた。だけど時々、夢なのか現実なのかわからなくなる時があって、、小学2年生のころ、神社で一人で遊んでいたら行方不明になったんだ」
「えっ?」
「3日くらい、大騒ぎで捜索されたらしい」
嗣実は体裁悪そうな顔で佐知に笑う。
「そして見つかったのが、この場所なんだ。」
嗣実は滝が勢いよく落ちる滝壺を見つめた。
「ここも何度も探しに来てたらしいけど、見つかったのはこの場所だったんだよ。」
じっと聞いている佐知に向かって、
「変な話でしょ?」
ははは、と笑う。
「よく言う、神隠しにあった、ってことになったんだ。」
「記憶はあるの?その時の」
「無かったんだけど、」
嗣実は立ち上がり、滝壺に近寄る。
「声が聞こえるわけじゃないけど、ここに龍が現れる予感がするようになった」
「じゃあ、今日もそうだったの?」
「…うん、ごめん、でも龍が来るかもって言っても、信じないだろ?」
それは、確かにそう。
しかし、鱗や、杉の記憶や、この村に来てからはまるで御伽噺のような出来事を体験している。
そして、実際、物凄い龍を見てしまった。
本物だ。
嗣実の神隠し事件や、龍が来る予感も、本当に違いない。
(嘘をつく訳がない。しかも私自身も体験してる)
「…嗣実さん、あなたのことは信じるわ。私も実際、あのすごい龍を見たもの。…動揺はしてるけど」
「目で見えている世界だけが現実では無いんだよ」
嗣実は滝壺の淵に立ったまま、佐知と向かい合った。
「あの白銀の龍は、この辺りを浄化している神格の高い龍なんだ。君にもこの龍が見えて、鱗を見つけた。佐知は私と同じ、龍の世界とこの世界を繋ぐ"中とりもち"、巫(かんなぎ)ということだよ。」
佐知は、無意識に嗣実のそばに行った。
二人が手を繋いだその時、空の彼方にキラッと光り、白銀の龍が降りてきた。
再び、空気が変わる。
時間も止まる。
大きく美しく、立派な龍は、
ゆっくりと二人の前を横切り、
ゆっくりと滝壺の中に入っていった。
佐知はまた呆然とその姿を眺めていた。
"運命"なんて言葉、好きでは無い。
しかしこれを運命と言わないなら、私達の出会いは何と表現すればいいのだろう。
(龍と、、神と人を繋げる、巫……)
白銀の龍を目の当たりにしたことで、嗣実と自分の役割というものがあるのが、わかった気がした。
白銀の龍が去った後は、その場所の空気が全て光っているかのように、澱みが消え、気が美しく整えられていた。
_______
その日の夜は、嗣実は村の会合で留守なので、佐知は嗣実の実家に夕飯を呼んでもらった。
龍を見た話は、口止めもされていなかったが、特に言わないでいた。
まだ自分の中で消化しきれていないので、伝えきれないと思っている。
「佐知ちゃん、橋の向こうの陶芸やってる二村さん知ってる?」
佳代子が片付けしながら聞いた。
「明日、行くんだけど、佐知ちゃんもどう?」
「陶芸できるんですか?」
「もしかして、このお皿もお義母さんが?」
大きく分厚い板のような藍色の皿が素敵だなあと思って見ていたのを、佳代子が気付いたようだ。
「そうよ〜」
佳代子は自慢げに鼻を膨らませる。
「面倒なところは先生がやってくれるから、好きなように作れるわよ。嗣実も作ってるわよ」
「あ、知ってます、素敵な器がたくさんありますね! 行きたいです!作りたいです」
佳代子は、明日迎えに行くわねと約束してくれた。
翌日、佐知は初めての陶芸に挑戦した。
陶芸家の二村氏は、優しい雰囲気の器の作り手で、初心者の佐知に丁寧に指導してくれた。
彼はこの土地に移住して30年経つらしい。
「ここはいいところでしょう?」
二村氏はにこやかに佐知に声かけた。
「嗣実ちゃんの前の宮司さんも立派な人だったけど、嗣実ちゃんに変わってから、ここはさらにいい感じになったよな、佳代子さん」
佳代子は、そうですかねー?と笑った。
「嗣実さんもこちらで作らせてもらってますよね。とてもいい感じで。」
「よく来てたね。…嗣実ちゃん、かわいいからモテちゃってね、嗣実ちゃん目当ての若い女の子がやたら体験に来るようになって、遠慮して来なくなったんだよ」
「え!そうなんですか?」
佳代子と二村は、ワハハと笑って、
「大丈夫よ、嗣実は佐知ちゃんに夢中なのがわかるから!」
佐知は苦笑いをして、黙々と土を形にしていった。
(そうよね、嗣実さん、素敵だもの、モテるわよね。)
佐知はちょっと悶々とした。
(私がたまたま"中とりもち"だったから、鱗拾ったから、運命みたいになっちゃったけど、、それで契約結婚しようってなったんだけど…)
('運命'に惑わされてるだけだったら、嫌だな)
「焼き上がりはひと月くらい先かな、また連絡するよ」
佐知は形作った器を二村に預けて、帰宅した。
_______
嗣実と佐知の夕飯は、いつもゆっくり晩酌をする。
佐知と心を交わしてから、嗣実はいつもご機嫌で、佐知とのこの時間を本当に楽しんでいるようだ。
「二村さんの陶芸教室に行ってきたの。」
「あ、そうだったね、何作ったの?」
「えっと、抹茶茶碗?のつもりのものを…」
「ははは、楽しかった?」
「ええ。…嗣実さん、嗣実さん狙いの女の子がいっぱい来ちゃうから来なくなったって、二村さんが言ってたわ」
嗣実は、え?と、飲んでいた酒を咽せた。
「そんな、いっぱい来ないよ。」
「嗣実さん、とってもモテモテなんですってね」
「え?そんなことないよ」
「嗣実さん、」
佐知は嫉妬している、自信の無い自分が嫌だなと感じた、にも関わらず、お酒が入っているせいか、思いが口にでてしまう。
「龍が連れてきたから、私を受け入れてくれてるの?鱗を拾ったから私を伴侶とみているの?…私自身のことより、それが大事なこと、、だよね……」
あれ?どうしよう、面倒なこと言ってるな、でも契約結婚しようと言ってたのってそういうことだよね。嫌だな私。ややこしい女になってる……
佐知は気分良く晩酌をしている嗣実に申し訳ないと思うのに、なぜか言ってしまう。
「…私は、龍のことは関係無くあなたに恋してしまったの。ごめんなさい、龍が嗣実さんにとって、人生の柱なんだとわかってるのに、、私、龍にも他の知らない女性にも、嫉妬してるわ。」
佐知は自分が嫌になり、立ち上がって寝室に行こうとした。
「佐知!」
嗣実は佐知を呼び止め、後ろから抱きしめた。
「確かに、私は鱗を拾う人を待ってた。」
「それが佐知だったことが、本当に嬉しかった。だから、いろいろ理由をつけて契約結婚を持ちかけて、ここに住むように言ったり、」
「あの時、社務所の外で向かい合った瞬間、恋に落ちたのは私だったんだ、、」
「…ほんとに…?」
「でなきゃ、あんなに必死に繋ぎ止めたりしないよ」
二人は向き合い、口付けを交わした。
佐知は、満ち足りた気分になっていた。
(…この人の言葉だけでこんなに嬉しい…)
「…今日はこのまま、私の部屋に…」
嗣実は自分の寝室に誘った。
「……はい」
(私、この人のことを、愛している…)
彼の体温がこんなに心地よい。
愛おしいと思う。
絡まる腕が、もどかしい。
「天国にいるみたいだ……」
森の鳥が静かに鳴く、深い夜だった。
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