第4話 夜の楽しみ
パシャ、パシャ、パシャ——
夜の帳がとっくに下りきった、深い深い時間。
セラの部屋は、すべての明かりは落ちて、ただ一つベッド脇の小さなスタンドライトだけが灯っていた。薄い光がカーテンの裾を揺らし、床の影を長く引き伸ばしている。
パジャマの代わりに着ているのは、ネットで密かに買った淡いラベンダー色のワンピース。伸縮性のある柔らかな生地が、彼の細い体の線にすいつくように馴染んでいた。鎖骨のくぼみ、華奢な肩、背中の丸み。布の下で包まれているすべてが、まるで別の誰かのもののように思えた。
シャッター音だけが、静まり返った部屋に響いていた。
家族が眠ったあと、セラはこっそりとベッドから抜け出し、カーテンを閉め切った自室でたったひとり、小さな舞台の上に立つ役者のように振る舞っていた。
鏡の前。薄くファンデーションを塗り、頬には控えめにピンクをのせていた。睫毛はマスカラで少しだけ濃く、目尻にはうっすらとアイライン。リップグロスの艶が、唇にほのかな光を宿していた。
——かわいい。
それは、誰にも向けられていない評価だった。ただ、鏡の中の自分に向かって呟く言葉。自分のものではないような細い鎖骨、華奢な肩のライン。すっと伸びた脚に目を落とせば、ほっそりとしたくるぶしが、ルームライトの下で静かに影を落としていた。
鏡の前に立ち、スマートフォンのカメラを構える。
パシャ。鏡越しに、薄く笑んだ自分の顔を写す。光の加減で肌が透けるように見えた。額にかかる前髪、頬をかすめる長いまつ毛、グロスを引いた唇の艶。
ふわりと腰まで伸びたウィッグを指先で梳かす。ふだんとは違う、女の子のような重み。肩を超え、背中に流れる髪がくすぐったくて、でも嬉しくて、思わず小さな笑みがこぼれる。
安っぽいシャッター音が響く。立ち姿、座り姿、膝を抱えた横顔。どれもがなりたい自分に近づいている気がして、セラの指先は止められなかった。
パシャ。パシャパシャパシャパシャパシャ──そのシャッター音は何処か狂気じみていた。呼吸器を患ったひとのする、死を感じさせる咳みたいな……
撮った写真をすぐに確認する。頬の丸み、伏し目がちの睫毛の長さ、布の陰に透ける細い首筋。どれも、男としての自分からは、あまりにかけ離れていた。でも——
そのかけ離れが、心をふるわせた。セラという名前が、どんどん自分のものとして馴染んでいくようだった。
鏡に映る姿が、現実よりも現実味を帯びていた。学校で名簿に載る塚本という姓も、父の前で発する「おれ」という一人称も、すべて舞台の上の別の誰かに思えた。
今ここでだけは、ほんとうの自分……そのほんとうが何かは分からないままなのだけれど……ただ確かに、胸の奥が高鳴りは一つの道標だった。
鏡の中、光を受けた自分の脚に見惚れる。タイツの上からでも、膝の形が分かるほどの細さ。太腿へと続くラインはなだらかで、どこか儚げだった。
その脚を両手でそっとなぞる。冷たい指先が、肌越しに自分の体温を確かめる。そっと、膝の下から太腿へ。スカートの裾が揺れて、空気がふわりとまとわりつく。
女の子のように細い、と言われたことがある。それを気にしていた頃もあったけれど、夜だけはその細さが誇らしく、愛しい、愛おしい、愛しい──
唇に手を当て、軽く笑う。鏡の中の自分はまるで別人のよう……でも不思議と厭じゃない。むしろ、惹かれていく……ゆっくりと、呑まれていくように。
鎖骨のくぼみに指をすべらせる。丸い肩を撫で、首筋にかかった髪をかき上げてみる。その仕草すらも、鏡の中のセラにはよく似合っていた。
スマートフォンを一度床に置いて、ベッドに腰を下ろす。スカートの裾がふわりと揺れて、太腿の上に落ちる。その白さに、自分でさえ目を奪われた。手を添えれば、その華奢な足がかすかに震えていた。
胸の奥がきゅっとなる。嬉しい、恥ずかしい、でも怖い。でも嬉しい。そんな言葉にならない感情が、熱のように全身を包みはじめていた。
「……きれい」
声に出すと、ふいに心臓が跳ねた。その瞬間、ひどく恥ずかしさがこみ上げた。だけど、それ以上に——奥のおくが、熱かった。
布の下、下腹部にうまれる高ぶり。セラは目を伏せた。ああ、やっぱり「男」なんだ、と、いつものように突きつけられる現実。
「このまま……消えちゃえたら、いいのに」
つぶやいた声は、誰にも届かない。夜の深さが、やさしくすべてを包み込む。今だけは許されている気がした。誰にも知られない、自分だけの夜の舞台。その幕が、そっと、静かに降りていく……ただ鏡の中の自分だけが、すべてを知っている顔で、微笑んでいた。
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