第3話 きらきらの衣装


 

 鍵を開けて玄関に入った途端、乾いた咳の音が耳に飛び込んできた。ひとつ、またひとつ、間隔を置かずに続いている。


 セラは靴の踵を擦り合わせて脱ぎ、急いで母の寝室へ向かった。


 母の体は布団に沈み込むように横たわっていた。薄い胸元が上下するたび、肩がかすかに震えている。セラは薬のボトルを手に取り、水を用意し、母に渡した。咳が出る度、そっと背中をさすった。時間をかけて咳が落ち着き、薬が喉を通ったのを確認すると、セラはゆっくり立ち上がった。


 母が患っているのは「間質性肺炎」という病気だった。医者の説明によれば、完治は難しく、ゆるやかに悪化していく可能性が高いという。最近はほぼ寝たきりとなり、家事の殆どをセラがこなしていた。


「…………」


 キッチンに立つと、手元にある材料をひとつひとつ確かめながら、夕食の下ごしらえに取りかかった。包丁の音がリズムのように響く。母が倒れてからというもの、これがセラの日課になっていた。誰かに押しつけられたわけではない。むしろ、母の代わりに家のことをこなせるのは、誇らしくさえ感じていた。母の手元で料理を見ていた頃を思い出しながら、母の所作を真似るようにして……。


 玉ねぎを刻み終えたところで、スマホの通知が目に留まった。軽い気持ちでインスタを開くと、紫乃の投稿が画面いっぱいに広がった。


 制服姿の紫乃が、背の高い男子と寄り添って写っている。大熊──今の彼氏。笑い合う二人の顔は照れたように赤らんでいて、お揃いのキーホルダーが手元で光っていた。


 セラの心に小さな棘が刺さるような感覚が走った。頬に触れた髪を耳にかける手が、無意識にぎこちなくなる。紫乃はもう桂ちゃんのことはなんとも思っていないのかな……セラは同じ写真を見るであろう桂ちゃんの気持ちを想像して少し苦しくなった。


「……あっ」


 気づいたらフライパンからかすかに煙が上がっていた。慌てて火を止め、木べらでかき混ぜると、焦げた匂いがキッチンに広がった。



 夕食の下準備を済ませたあとは、自室に戻って課題に向かった。数学のプリントは、授業中に終えられなかった分を片づけるだけ。でも、案外苦戦して、消しゴムの消し跡でプリントは黒ずんでなんだか厭な気分になった。


 終わると、古びたパソコンの電源を入れた。父のお下がりで、何度も調子が悪くなりながらも、まだ使えている。立ち上がった画面で、お気に入りのアニメを再生した。


 それは子供向けのアニメだ。ずっと昔から続いている……あんまり男の子で見ている人はいないけれど、セラにとっては見ていると安らぐ癒しだった。


 ピンクや水色の世界の中で、小さな女の子たちが笑い合っていた。セラがまだ母の膝にすっぽり収まっていた頃から観ていた作品だった。綺麗な宝石に囲まれて、派手それでいて気品のある衣装、甘い雰囲気……現実とはどこか違う空気が、安心を与えてくれて、現実でチクチクとした心がいつものカタチに戻ってくれる……。


 そのとき、スマホが震えた。着信の名前を見て、セラは姿勢を正した。紫乃からだった。おそるおそる応答ボタンを押すと、すぐに声が飛び込んできた。


「もしもーし、今なにしてた?」


「え……えっと、数学の課題してた」


 画面には、キャラクターが無邪気な笑顔で止まっている。じわっと背すじに冷や汗を感じた。


「あんなの、授業中に終わるでしょ」


 呆れたようにに紫乃は言った。そういえば紫乃はとても数学が得意で、昔から計算は桂ちゃんやセラなんかよりいつも速かった。セラはごまかすように声を出す。


「僕、数学ちょっと苦手でさ……あ、紫乃は、昔からそういうの早かったよね。暗算とか、得意──」


「──あ、ごめん今急いでて。本題入るね」


 紫乃は答えなかった。代わりに、少し急ぐような口調で本題に入った。


「あのさ、脚本なんだけど。悪いけど、別の人に頼むことになった。ごめんね、いきなりで」


 一瞬、言葉の意味が胸に落ちてこなかった。何かの間違いかと思って、でも紫乃の声はまっすぐだった。


「……そっか。わかった。僕も……あんまり自信なかったし」


「まぁ、そうだと思ってさ。ちょっとセンス違ったしね」


 淡々とした声に、どこか無関心さが滲んでいた。


「でも、世界観とか小道具はそのまま使うから、週末、衣装とか買いに行くの手伝って」


 命令のような言い方だった。断る余地はないような言い方。


「……うん。いいよ」


「ありがと。じゃあ、土曜空けといて。よろしくー」


 ぷつ、と通話が切れた。


 部屋の中が、何もなかったかのような静けさに包まれる。パソコンの画面では、キャラクターが静止画のまま笑顔を浮かべていた。どこか浮かれていて、何も知らない笑顔だった。


 思い返す。まだ二人が幼かった頃、このアニメの中のキャラクターが紫乃に似ていると話したことがあった。似てるよね、と言うと、紫乃はちょっと得意げに笑っていた。


 あの頃の紫乃は、もういない。セラの見ているものなんて、きっと紫乃の中にはもうない。


 パソコンの蓋をそっと閉じた。目の奥が少し熱かった。





 約束の土曜日。待ち合わせ場所の駅前に着いたセラは、人の多さに思わず立ち止まった。


 集まっていたのは、演劇部の美奈子、紫乃、そしてその彼氏、大熊。紫乃は事もなげに「セラ一人じゃ頼りないし」と言ったが、セラにしてみれば、そんな大仰な集まりになるとは想定していなかった。


「もう少し筋肉つければ、モテそうなのになぁ」


 紫乃がセラの細い腕に視線を滑らせながら、笑う。からかうような、軽い調子だった。横にいた大熊がそれに乗っかるように、にやっとして言った。


「なあ、塚本。お前も筋トレしようぜ」


 本名を呼ばれて、セラは眉をわずかに動かした。心の奥を、無断で触られたような気がして、咄嗟にムッとした表情になってしまう。それは、からだを触られるような感覚の近かった。


 だけど、それもほんの一瞬。すぐにいつもの無表情に戻した。大熊はその変化に気づいたのか、きょとんとした目をしていた。


 美奈子はというと、少し離れたところで困惑したような顔をしていた。どうやら、プリンセス役を自分がやることを知らされたばかりらしい。


「……なんで私が主役……」


 と小さくつぶやく声が聞こえる。


「ずっと前から、磨けば光ると思ってたのよ」


 紫乃は軽やかにそう言って、美奈子の肩をゆさゆさした。半分冗談のように、でも目の奥にはちゃんと計算があるようだった。


「それにしても、もっと早く相談するとか、さ……」


 美奈子が戸惑いの混じった声を返すと、紫乃は「はいはい」とあしらうように笑った。「美奈子はこう見えてほんとはやりたがってるからね」


 図星だったのか、美奈子は目を伏せた。その頬に、わずかに赤みが差していた。眼鏡と三つ編みで隠されがちだが、よく見ると彼女は整った顔立ちをしている。セラもそれに気づいていたけれど、口に出すことはなかった。


「じゃあ、まずは衣装からね!」


 紫乃の号令で、一行はショッピングモールへと向かった。


 けれど、衣装コーナーにたどり着く前に、紫乃と大熊は別の雑貨屋に目を奪われ、「ちょっと見てくる」と言って早々に離脱してしまった。結果として、セラと美奈子のふたりきりで衣装を探すことになった。


「セラくんって、なんでセラって呼ばれてるの?」


 歩きながら、不意に美奈子が訊いてきた。声は穏やかだったが、興味深そうに横顔を覗き込んでくる顔は少し真剣にも見えた。


「……それは、その……」


 セラは少し言い淀んで、視線を逸らす。


「ふふ、秘密ってことね。んでも、なんか可愛いくて良いんじゃない?」


「……そう?」


「うん、似合ってる。セラくん、可愛いからね」


 可愛い、を強調するように美奈子は言った。そこでセラは、自分が浮遊するようないい気になっていたことに気づいた。すぐに視線を逸らして言った。


「……おれ、男だから」


 セラは意識して、一人称を「おれ」と使った。こういう時、自分の輪郭を強調しないと、不安になる。美奈子との距離はまだ遠い。だからこそ、余計に。だが美奈子は、その防壁すら見透かしたように、くすりと笑うだけだった。


 衣装店に着くと、セラの表情は自然と明るくなった。色とりどりのドレスが並ぶ空間は、どこか舞台の袖を思わせる高揚感があった。


「これがいいんじゃないかな! 舞台全体、青系で統一するでしょ? それに、美奈子さん、肌が綺麗だから水色似合うと思う!」


 興奮気味に言ったあと、自分のテンションに気づいて、セラははっとして口をつぐんだ。少し頬が熱を持っているのが分かった。


「うん、確かにいいかもね」


 美奈子はドレスを手に取り、布地の質感を確かめるように見つめた。


「よし、第一候補決まり」


 そのあとは、ふたりでドレスに合うアクセサリーやパニエ、ティアラ、シルバーのリボン付きパンプス、小さな手鏡など、次々と候補を選びながら盛り上がっていった。どれも舞台用としては高価だったが、美奈子が「予算オーバーでも、自分で足すからいい」と言ってくれた。


 自然と会話が弾み、セラは気づけばすっかり打ち解けていた。


「いい感じに、イメージ固まってきたね」


「うん。……やっぱセラくんって、こういうの好きなんだね」


「……んまぁ、多少ね。でも、これで……役に負けないくらい、美奈子さんに似合う衣装になると思う」


 少し照れながら、でも本音でそう言った。美奈子は黙ってセラを見つめて、やがて目を細めた。


「うん、そうね。でも──」


「でも?」


「セラくんにも、似合うんじゃない?」


「そ、そんなことないよ……」


 否定しながらも、セラの声はどこか上ずっていた。頬に熱が戻るのを感じて、視線を逸らす。けれど、美奈子はその反応をすべて楽しむように、微笑を浮かべていた。

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