第5話:熱風と恋の風
午後の陽ざしがKawaii Cafeの大きなガラス窓を通して差し込み、店内はまるで小さな家のような暖かさに包まれていた。
カナはカウンターの後ろで、集中してコーヒーを淹れる練習をしていた。
小さな手でミルクピッチャーとエスプレッソマシンを丁寧に扱いながら。
そのそばではモクが、やさしく見守りながらタイ語の簡単な単語を教えていた。
「“ร้อน(ロン)”は、“熱い”って意味です。難しくないですよ」
「お客さんがホットコーヒーを注文したら、“ร้อนค่ะ”とか“ร้อนครับ”って言います」
カナはまじめに復唱した。
「ร้อนค่ะ……」
甘く落ち着いた声には、ほんの少し日本語のアクセントが残っていた。
店のベルが鳴った。入ってきたのは、スーツにネクタイ姿のハンサムな男性だった。
自信に満ちた目と、魅力的な笑顔。
ジェー・プローイ(เจ๊พลอย) がにこやかに迎える。
「いらっしゃいませ、メータ―さん。ご来店ありがとうございます」
この男性は“セー・メータ―”(เสี่ยเมธา) という、若手実業家として注目されている富裕層の一人であった。
メータ―はまっすぐカウンターに向かい、カナに微笑んだ。
「こんにちは、カナさん」
「あなたがこのお店で研修中だと聞きまして。お会いできて嬉しいです」
カナは丁寧にお辞儀をして、上品な声で答えた。
「こんにちは、メータ―さん。私もお会いできて嬉しいです」
ちょうどドリンクバッグを準備していたティーが、その声に気づいて振り向いた。
少し警戒した目でメータ―を見たが、無理に笑顔を作って挨拶した。
「セー・メータ―じゃないですか。今日はご自分でご来店とは、珍しいですね」
「いつもはライダーに頼んでるのに」
メータ―は余裕の笑みを浮かべた。
「今日は自分で味わってみたくて来ました」
二人の男性の間に、カナが自然と巻き込まれる形になった。
モクが空気を読んで、間に入るように言った。
「よろしければ、特製のホットラテはいかがでしょうか?
ミルクフォームがとても柔らかいんです」
メータ―はうなずき、注文したあとカナにやさしく尋ねた。
「カナさん、コーヒーの練習はどうですか?」
カナはやや緊張しつつも、丁寧に答えた。
「毎日、少しずつですが……練習を重ねています」
ティーはどこか落ち着かない様子で、それでも冗談めかして言った。
「美味しく淹れられるようになったら、ぜひ教えてください。常連になりますから」
カナが淹れたラテが完成し、そっとメータ―の前に出された。
さらに、彼女は中華菓子のトレイを手に取り、静かに勧めた。
「ホイシアン (惠香) の月餅です。甘さ控えめで、コーヒーによく合いますよ」
メータ―はひと口食べて、笑顔で言った。
「美味しいですね。とてもまろやかな味わいです」
ジェー・プローイが声を上げて笑った。
「カナは本当に販売が上手よ。あの丁寧な話し方が、お客様を引きつけるのよ」
カナは少し頬を染めながら、静かに微笑んだ。
「私はただ……お客様にも良いものを知っていただきたいだけです」
夕方になり、ティーは配達に出ていった。
カナとモクは、店をきれいに整理していた。
その後、カナはタイ語のノートを広げて復習を始めた。
「ธุรกิจ(トゥラギット)……これは、“ビジネス”って意味ですよね?」
「正解です」モクは微笑んだ。
やさしい風が窓を吹き抜け、店内の明かりに反射して、あたたかく希望に満ちた夜の始まりを告げていた。
その晩も、ティーはバイクでカナを迎えに来た。
「今日は、角の日本料理屋さんが半額セールなんです。よかったら一緒に行きませんか?」
「本当ですか?うれしいです。久しぶりに日本食が食べたかったんです。行きましょう」
カナは笑顔で答え、ティーのバイクにそっと乗った。
それを、店内のガラス越しにモクが見つめていた。
胸がきゅっと痛んだ。
ずっと、ティーに想いを寄せていたから。
つづく
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