第4話

昨日は珍しく眠れなかった。

塾の宿題を終わらせて、そのまま家事に取り掛かった結果、普段と寝る時間がずれたためになかなか寝付けず、寝るタイミングを失ってしまった。

というか、嘉根さんに恋人のフリをする必要があったのかを聞き忘れてしまった。その事で寝る前にモヤモヤして眠れなかった。

いや、夏休みが無くなるなんて言われた動揺が今更来たのかもな。


昨晩作っておいたお弁当を冷蔵庫から通学カバンに入れ、その残りで作っておいた朝ごはんを食べ、両親が先に食べていた分の皿も合わせて洗って、妹の朝ごはんにラップをかけ、晩御飯をつくって冷蔵庫に入れておく。

僕は支度を済ませ、妹にそろそろ起きるよう声をかける。

妹の通う公立中学校は家の近くだから、何度注意してもいつもギリギリに起きる。両親が共働きでほとんど家におらず僕が妹の面倒をみているが、反抗期で僕の言うことは聞く耳を持ってくれない。

時計を見ると、普段の家を出る時間を過ぎていたため慌てて外に出る。

ヘルメットのベルトをきっちりと締め、交通ルールをしっかりと守り、安全に学校へ辿り着く。自転車置き場に自転車の車輪をきっちりと合わせて鍵をかけ、昇降口へ向かう。


自分の出席番号が振られた下駄箱を開き、靴を履き替えていると、隣のクラスの佐藤さんがやってきた。隣のクラスの下駄箱は向かい側に置いてあるので、佐藤さんと背中合わせの配置になる。彼女とは入学式の時に喋った程度で、その後クラスが一緒になったこともない。挨拶もせずにその場を去ろうとすると、彼女の方から

「おはよう。」

と声をかけてきた。周りに他に人はいないため、間違いなく僕に話しかけてきている。

「あぁ、おはよう」

久しぶりに話したため、ギクシャクしてしまう。この後は何を言えばいいのだろうか。

気まずい空気に耐えられず、目線を逸らして先に教室へ向かおうとする。

すると、どうしてか、佐藤さんもついてくる。いや、教室が隣なのだからついてくるなんて表現は良くないのだが、直ぐに教室へ向かうのなら僕がタイミングをずらしたのに、などと後悔しながらも、この心地の悪い空気をなんとかする為に乾燥した唇を動かし口を開く。


「佐藤さん久しぶりだね、入学式以来かな」


そう聞くと、佐藤さんは何かを言いかけて、開きかけた口を閉ざす。なんて事だ。まさか返事が返ってこないとは思わなかった。想定外だ。

もしかして、僕は彼女のことを佐藤さんだと思っていたが、人違いをしてしまっているのだろうか。朝からとんでもない空気だ。いつもならもう少し早く学校に着くため、誰にも出会わずに教室の鍵を取りに行くのだが、今日はいつもより遅れてしまったから職員室へ行く必要がない。

つまり、逃げ場がないのだ。

いつもよりも長い廊下を歩き切り、三階分の階段の初段に足をかけると、つい最近聞き慣れた声が後ろから聞こえてきた。


「芽島くん、おはよう。昨日は無理させてごめんね」


嘉根さんだ。とにかくこの空気にどう対処すればいいかわからなかった為、知り合いが来てくれて大変助かった。

しかし、嘉根さんが手を振りながらこちらへ向かってくるのを、佐藤さんは鬼を見るかのような恐ろしい形相で睨みつけ、小走りに階段を登っていってしまった。二人は仲が悪かったのか。


「あ、あぁ、嘉根さんおはよう。」


僕は困惑しながらも挨拶をする。嘉根さんも彼女が走り去るのを見ていたようで、


「あ、ごめん、何か邪魔してしまったかな。」


申し訳なさそうにする彼女を見て、僕は助かったとは言えないため静かに首を振る。

しかし、佐藤さんは何か用があったのだろうか。また彼女が落ち着いて、お互い時間に余裕のある時に聞いてみようかな。

そう思っていると、嘉根さんが僕を見つめていることに気がついた。


「ええと、何かあったのか、その例の話に進展があったとか」


と言うと彼女は見つめていたことに気が付いたようで、ハッとする。


「あ、いやごめん、見つめてしまっていたようだ。その、要らぬ世話だったら申し訳ないのだけど、昨日はよく眠れたかな。その、目の下にクマが出ているようにみえて。」


そう言われると、確かに僕は昨日あまり眠れていない。水曜日の分の塾の宿題と予習を行ったので眠る時間がズレてしまい、すぐに寝付けなかった。


「確かによくは眠れなかったけど、気にしないでくれ。今日、明日で調整できる範囲内だ。」


そう伝えると彼女は若干申し訳なさそうな顔をした。それにしたって案外、人のことを見ているんだな。そのおかげで今回の件が冤罪だと判断できたのかもしれないが。


「今日は井戸の件について、川中君に聞こうと思っているんだけど、その、」


彼女が急に歯切れ悪くモゴモゴしだした。


「あぁ、もちろん手伝うよ。解決まで協力しよう」


そういうと、彼女の顔が分かりやすく晴れ、にこやかに笑った。

教室に入ると、僕らよりも先に来ていたおよそ半数くらいのクラスメイトが次々に僕らの顔を交互に見て凝視する。僕らにも目がついていることを知らないのだろうか、穴が空いてしまいそうなほど見つめてくる。僕は耐えられず、嘉根さんにだけ聞こえるような小さな声で

「また休み時間に考えよう」

と伝え、自分の席へ座った。

教室内は布が擦れる僅かな音が聞こえる程に静まり返っていたが、ぽつりぽつりと話し声が戻り始めた。僕は今日使う教科書を整理し、朝礼まで時間が十分ほど余ったので、読書をしようとカバンから本を取り出す。

本を机の上に置くと同時に、2人が僕の机を取り囲んでいた。顔を上げてみると、彼らは僕がクラス内で比較的よく喋る友人の相澤くんと福田くんだ。

彼らはかなりご立腹の様子で僕の顔を見つめている。またいつものおふざけのノリだと思いツッコミ待ちでスルーしようとすると、更に顔を近づけられて動けない。

「な、なんだ、何か用なのか」

そう僕がいうと2人は揃って大きく息を吸って


「何か用か、だぁ!?悠君こそボクらに言うことあるよねえ!?抜け駆けは無しにしよう、兆しがあれば報告しようって言ってたよね!まさか、裏切りなんて、違うよね。し、しかもお相手が、あ、あの」


相澤くんが大きなようで小さい声で僕に詰め寄り、尻すぼまりになっていく。

そうだ、誤解を解かなければ。福田くんに至っては血涙が見えてくるような苦しい顔をして固まってしまっている。


「相澤くん、福田くん、安心してくれ。僕は何も約束を違えちゃいない。今はいくら君たちとの仲とは言えど詳しく言えないのだが、誤解だ。」


そう伝えるが2人は納得していない様子だ。福田くんが頬を掻きながら


「悠は嘘ついたり誤魔化したりしないだろうけど、そ、そうは言っても昨日悠が腕組んでるのを見たって人が居たよ。腕を組むのは、さすがにそういうコトじゃないのかい」


しまったな。昨日のパニック状態の嘉根さんと僕のいざこざを目撃していた人がいたのか。渡り廊下での出来事だから、誰かに見られてはいると思ったがこんなに早く噂が回ってしまうとは。


「誤解なんだ。何を言っても信じてもらえないだろうけど、誤解なんだよ。」


僕は必死になって弁解しようとするが、必死になればなるほど怪しさが増す上、A組の冤罪の話が本当にしても。嘘にしても詳しく話してしまうのは良くない。歯痒い思いが溢れるがいくら友人といえども、言えないものは言えない。

朝礼前のチャイムが鳴る。福田くんと相澤くんが白けた目で僕を見つめながら口パクで「あとでちゃんと説明して」と言ってきた気がする。もう嘉根さんに直接誤解だと言ってもらうしか無いのかもしれない。モヤモヤしながら朝礼を待つ。

隣のクラスはチャイムと同時に朝礼が始まっている。チャイムから約4分後、乙訓先生の大きな足音が廊下に響く。小さな話し声が立ち込めていた教室の空気が入れ替わった様に静まり返る。いつものように荒々しくドアを叩きつけ、直ぐに乙訓先生が生徒名簿と連絡事項が書かれたボードを小脇に抱えて入ってくる。

「号令」

抱えた荷物を教壇に落とすやいなや、そう呟く。僕はタイミングを逃さずに、


「起立、礼、着席」


とテンポよく呼びかける。ここでモタついてしまうと先生の機嫌が悪くなってしまう。本来ならば日直の仕事なのだが、僕がテンポよく号令を行うだけで怒られる可能性を回避できるので、担任が変わって数日後から僕が進んで号令係を名乗り出ている。

先生はいつもよりも上機嫌に見えるが、この状態からなぜか激昂し、朝礼が長引き1限目の移動教室に間に合わなかった事例がある。

はたして今日はどうなることやら。僕は先生の連絡事項に身構える。

先生は無言で黒板に連絡事項の箇条書きを始めた。上から、課題の提出締切、クラスの夏休み課題、と書いて口頭で説明を始めた。


「先週の課題の提出期限、プリントだ。期限が今日までと言っていたはずなので、この朝礼後もしくは放課後までに俺に持ってくるように。次に、夏休みの課題だな。まぁ、詳しいことは夏休み前日に話すとするか。夏休み前日にな。」


なんだか含みのある言い方だ。夏休みを補習に当てる案が通ったのだろうか。


「あとは注意事項だな。近くで野生動物が出たらしいので、見かけても触らないように。不審者にも、いつも通り気を付ける様に。ではこれで連絡は終わり、号令」

「起立、礼、着席」


号令後にクラスの半数程度の人間がプリントを出しに列を作る。

このプリント課題とは将来の進路希望調査についてだ。僕は同市内の公立大学を目指していると記載した。僕も列の最後尾に並び提出を待つ。紙を出すだけなのになかなか列が進まないので顔を横にして前を見てみると、先生は出されたプリントをその場でチェックし、鼻で笑ったり、紙と生徒の顔を見比べたりしており、まるで判決が下されているようだ。

その様子を見て列から離れていく人もいる。ようやく僕も提出する時間が到来し、審判の時を待つ。先生はあまり僕に興味がないのか、大したリアクションはしなかった。内心どこかホッとして席に戻ろうとすると、先生が僕を呼び止める。リアクションを考えてわざわざ伝えようとしているのか、顔はかなりニヤついている。気は乗らないが、相手は先生という立場にあるので近寄ると顔を寄せられ、


「お前、女にうつつを抜かしてちゃあ、行けるとこも行けなくなっちまうぞ」


と先生なりの配慮だろうか、僕と先生だけが聞こえるような声で囁いてきた。乙訓先生が知っているのなら、もう全教員に知れ渡ってしまっているのだろう。昨日の、渡り廊下での出来事を目撃されていたのだろうか。あの状況を目撃されていたとして、今しっかりと否定をすると逆に僕らの計画を知られてしまうかもしれない。

こういう時、一番いい対処法は苦笑いだ。「ははっ…」と力なく笑って頭を掻く。

周りから見れば、皆と同じように将来のルートに対してケチを付けられたようにしか見えないだろう。先生はニヤニヤと笑いながら、僕の背中を力強くバシバシと二回叩き、満足げにプリントを揃えて職員室へと帰っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る