第7話‐1

 一瞬だった。何もかも。


 ゲートをくぐった竜秋たちを待っていたのは、四方をドロドロの溶岩に覆われたドーム状の火山洞窟だった。皮膚の水分を一瞬で奪う灼熱と、世界の中央で座す《王》の存在感に、全細胞が大音量で警笛を鳴らした。


神とも悪魔とも見えるその生命体が、細くしなやかな右腕を横へ伸ばすと、無数の火の粉を集めたような燐光の束が手のひらへ収束していく。その光はみるみる長大な剣の形となった。


それが、瞬く間に三人の命を奪った。


異次元の速度を前に、作戦などまるで意味をなさなかった。狙撃銃を持った恋がまず狙われ、庇った爽司に巨剣の腹が直撃。吹き飛ばされ、岩壁に打ちつけた爽司の頭が、身の凍るような音を上げた。沈黙し人形のように動かなくなった爽司に、既に半分崩れていた連携が、完全に瓦解した。


爽司の作った僅かな隙を突いても回避しきれず、恋は剣先に脇腹を抉られた。夥しい出血に顔を真っ白にして、縋るような眼差しを竜秋に向けて、恋は倒れた。


発狂し、跳びかかった竜秋は、王の頭に竜爪を叩きつけるより早く、その全身から爆発的に放たれた熱風に吹き飛ばされた。前面と気管に大火傷を負い、呼吸もままならないところに、極めて冷徹な追撃がきて――誠が、そこへ飛び込んでこなければ、竜秋の生涯はそこで終わっていただろう。


刀を頭上に構えて受け止めた誠の体が、毬のように弾け飛んで、天井の岩肌に激突して落ちるのが、やけにゆっくり見えた。動かない少女を抱き上げ、見下ろし、一歩一歩と迫ってくる王の気配を感じながら、今、竜秋は全てを後悔している。


なぜ塔に挑んでしまったのか。なぜもっと慎重になれなかったのか。熱や寒さをひたすら忍び、限界まで救助を待っている方が賢明だったのではないか。


――違う。今考えるべきは、そんなことじゃない!


王が歩みを止める。その剣が垂直にそそり立った瞬間、竜秋は抱えていた誠を全力で横に放り投げた。


質量を持った赤い稲妻が天地を割った。誠と反対方向に跳んだ竜秋の身体を爆風が煽る。髪の先からボタボタ滴る汗が大地に落ちて蒸発する音。息を吸い込むと肺に焼けるような痛みが走った。空気すらまるで炎。不格好に着地し、二、三歩ふらつきつつ、霞む視界をこらす。すぐ懐に王がいた。


竜爪が鳴く。熱が皮膚に、衝撃が骨に響く。吹き飛ばされた勢いのまま、転がり、滑り、壁に叩きつけられる。なけなしの酸素が口から吐き出される。


今、生身の戦闘をしている実感がない。熱にうなされた悪夢の中みたいだ。やばい、もう次が来る。立て。細胞が鳴らす警報さえ、厚い壁を隔てたように遠く響く。


速度も膂力も、あのサムライとすら比較にならない。このまま戦い続けたとして稼げるのは、約束された死を受け入れる時間ぐらいのものだ。


死ぬ。死んだらどうなる。全部、なくなる。積み上げてきたものも、新しく見つけた価値あるものも。嫌だ。嫌だ……! 外側の灼熱すら忘れる、体の内側から吹きつけるような冷気に身震いする。怖い。怖い。死ぬのが、失うのが、終わるのが――


――たっちゃんなら、なれるよ。


忌まわしい声が、恐ろしい笑顔が、項垂れた竜秋の髪を鷲掴み、乱暴に引き上げた。


体の震えが、止まった。


「……ハハ……だよな、熾人ォ」


 得物を杖のようにして起き上がり、濡れた銀髪を振り乱し、凶悪に笑う。


「こんな面白れぇ敵前に、昂らないなんて……俺らしくなかったなァッ!!」


 野生の肉体が跳ね飛んだ。瞬間移動の如く王の頭上へ現れた銀髪の悪魔が、高笑いと共に棍棒を叩きつける。溶岩剣で受けた王の目を凝視する、黄金の眼光が、爛々と血走った。




 *


 世界が、悲鳴を上げている。


 その壮絶な音と揺れに、誠は目を覚ました。


 鉄板のように熱い岩の上に横たわっている。僕は、何を……――寄せては返す波のように、断片的に記憶が蘇ってくる。


 九十度傾いた視界の中で、竜秋とナニカが戦っている。この世の生物の戦いとは思えなかった。誠の目には、赤と銀と黒の残像と、遅れて爆ぜる無数の火花しか捉えられない。空気が引きちぎれるような轟音がひっきりなしに響いて、塔そのものが揺れている。


 戦わなきゃ。起き上がろうとして、指一本たりとも動かせないことに気づく。


 まるで金縛りだ。脳が目覚めただけで、体は依然眠っている。どんなに力を込めても、まぶた以外の何ひとつ持ち上がらない。理力切れ。ゼロではない。マイナス。全身の理力を有りっ丈かき集めて、限界を超えて絞り出した、今の誠はその絞りカス。木偶の坊。


 両者がぶつかるたび、ぐちゃりと潰れる音と共に鮮血が舞う。竜秋の身体は今や、染屋の壺に浸したように真っ赤だった。半分白目を剥いて、血痰が絡んだような呼吸も絶え絶えで、それでも竜秋は獰猛に笑っている。


 君は、どこまで強いんだ。


 初めて出会ったあの日から。彼の背中を追いかけて、彼みたいになりたくて、なれるはずがなくて。それでも、この塔で初めて、少しだけ竜秋に認めてもらえたような気がして舞い上がった。彼が普段と違う声音で自分を呼ぶのが、普段と違う眼差しで見つめるのが、幸せだった。


 危ない、という、黒い矢のような直感。普段ならそれと同時に体が動くのに。


 業火を纏った巨剣が竜秋の脇腹を貫くのを、誠はただ見ていることしかできなかった。




 世界から、音が消えた。


 友が、腹部の右半分を貫かれて宙づりになっている。くの字に折れた体から溢れる端から、溶岩の刀身に焦げ付く赤黒い血。抉られた肉の断面さえ即座に焼かれたのか、長剣の先端にへばりついたままずり落ちることも許されない。


 口から夥しい血を吐いて、それでもまだ暴れようと藻掻く竜秋の目から、間もなく光が失せていく。悲鳴にも似た警報を鳴らして、ウラヌスが見せる彼の生体指標が急激に減衰していく。輝かんばかりだった彼の存在感が、今、二度と帰らぬ場所へ消えようとしている。


 自分の心音すら聞こえない、無音の世界で、誠の瞳孔が独りでに開いていく。


ついに力尽き、だらりと両腕を垂らした竜秋の手から、初代塔伐器が滑り落ちた。それが奏でた空虚な音を引き金に、世界に音が一気に戻る。


『動くべき時に体が動く。特別鍛えたわけじゃないなら、それは才能だ』『誠。お前はビビってるか』『完璧だ、誠』――彼がくれた言葉が、表情が、津波の如く押し寄せてくる。強さとは何かを教えてくれた人。過ごした時間の短さに驚くほど、心の真ん中に刻まれた大切な人。今、死に行く彼を目の前に、電池が切れたみたいに転がっていることしかできない。呆然と見開いた瞳から涙を垂れ流し、ひたすら己の無力を呪った。


 その涙が片方の秤に満ちたみたいに。体の中で、天秤の跳ねる音がした。

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