紀元前460年、インド ③(終)
日の暮れかかったシュラーヴァスティーの市は、家路を急ぐ者と酒宴に繰り出す者、帰る者と行く者でごった返していた。廃墟のような場所に住むアシュヴァラにとっては、人の量と臭いは慣れておらず、あまりよい気分ではなかった。行き交う人々の中を、アシュヴァラは重い足取りで歩いていく。夕日に陰った人々の顔はどれもおぼろげで判然としない。そんな人影が多数行き交う様は、アシュヴァラをどこか現実離れした、夢幻のごとき感覚にさせた。
釈尊がどんな姿だったのか、証明する術はない。もちろん、未だ生きていて、彼に長く付き従った弟子たちに接触し、事細かに容姿を聞けば、ある程度のところまではわかるかもしれない。しかし、考えてみれば、どこまでいってもそれは記憶の中の釈尊なのだ。真実ではない。真実ではないものを彫ってしまってよいものか。そもそも、それが真実か、真実でないかに固執するのも、教えに対する姿勢として正しいものか。
釈尊の像を、仏像を彫る。誰も成したことのない事業を成し遂げる。そんな功名心が、自分にもないではなかった、とアシュヴァラは内省した。この依頼は断り、修行に邁進しよう。プラトラに連絡をとって――。
そんなことを考えていると、視界の端に探していた顔がよぎった気がした。
「プラトラ?」
振り返る。が、彼はいなかった。若い浮浪者が一人、怪訝そうな顔でアシュヴァラを見て、そのまま足早に去っていく。夕暮れ時で暗いせいで、人の見分けがつきにくくなっているのだ。アシュヴァラはそう思うことにした。
しかし、その後も、アシュヴァラは何度も人混みの中にプラトラの顔を見た気がした。目を凝らしてみると、それは知らぬ男であったり、知らぬ女であったり、ただの石壁であったりさえした。
(俺はおかしくなってしまったのか?)
あの男から、仏像を作る依頼を引き受けたから、おかしくなってしまったのか。これは仏罰なのか。そもそも、なぜ俺はあんな依頼を引き受けてしまったのか。あんなにも簡単に。
頭を抱えながら、できるだけ人々を見ないように進むアシュヴァラの脳裏に、プラトラの美しい顔と言葉が思い起こされる。
――顔でございます、アシュヴァラ様。
顔は、人に特別強い印象を与えるのだという。あの美しい顔が、俺に強い印象を与えすぎて、おかしくなったのではないか。アシュヴァラは頭を抱え、目を閉じた。目を閉じてもなお、作り出した暗闇の濃淡が顔を思い起こさせた。思わず犬のような唸り声をあげて、アシュヴァラは駆けだす。一刻も早く、この人まみれの場所から遠ざかりたかった。
工房に逃げ帰ったアシュヴァラは、何かにとりつかれたように……あるいは、とりついた何かを振り払うように、一心に彫刻の作業に向かった。
「去れ、マーラよ」
アシュヴァラは呟いた。自分のこの状況は、何かしらの悪魔、マーラの仕業としか思えなかったからだ。釈尊が悪魔を退けたように、不動の心で対応しようとしたが、目を閉じたり周囲に目を向けると、どこかにプラトラの顔を見出してしまいそうな自分が怖かった。
アシュヴァラは祈るように、縋るように無心に彫った。釈尊がマーラを退けた場面を彫り、自分もそうあれるよう、マーラを退けられるよう祈りながら、彫り続けた。苦悩から逃げるために、あるいは戦うために力の籠もったノミは、皮肉にもかつてないほどの精度でアシュヴァラの思念を木材に彫り込んだ。
マーラよ、去れ。マーラよ、去れ。
一晩中、いくつもの作品を彫り続けたアシュヴァラは、夜も明けきらぬころ、体力の限界で気絶するように眠りについた。
「これはまた、素晴らしい作品ですなあ」
頭上からの声でアシュヴァラが目を覚ますと、すっかり昼になっており、工房にはいつも彫刻を卸している商人がいた。アシュヴァラは彼の愛嬌のある顔を見て、今日、彼が彫刻を取りに来る約束をしていたのを思い出した。
「……悪いが、今回は……」
仏像の作成にかかりきりだったため、普段から彼に卸している飾り彫りや実用品の類は、今回は用意できていなかった。アシュヴァラは痛む頭を抱えながら起き上がり、謝ろうとした。
「あれ?こちら、商品ではないのですか?たくさんあるから、お渡しいただけるものかと」
商人が手に持っていたのは、昨晩彫り続けた釈尊の像、そしてマーラを退ける釈尊のレリーフのようだった。裏面までは細工が施されていないが、ここに散らばっていたならその一つだろう。
「それは……」
「素晴らしい作品ですねえ。この鬼気迫る感じ、執拗なまでの作りこみ……装飾品としては使えないでしょうが、美術品としてお求めになる方は大勢いるでしょう。アシュヴァラ様の腕は確かだ。いつかこんな、芸術品を作ってくださると、私は信じておりました」
商人は釈尊のレリーフを矯めつ眇めつしながら、うっとりと息を吐いた。
「特に、この真ん中の人物の顔が良い」
アシュヴァラの背に冷たいものが走った。商人はかまわず続ける。
「この美しい顔……周囲の魔物や誘惑を、まるで意に介していない。どこか超越した、神々しさすら感じる顔だ。ああ、美しい……」
「返せ、それは売り物ではない」
アシュヴァラはなんとか言葉を絞り出した。
「特注品と、その試作だ。とある男に頼まれて作っていた物だ。もともとどこに見せる予定もない」
「プラトラ様ですか?」
商人が口に出した名前に、アシュヴァラは目を見張った。
「プラトラ様は私のお得意様でして。アシュヴァラ様の腕についてお話したのも、私なのです。ある特注の依頼をしたいから、腕のいい職人を教えてくれ、と以前言われましてね。ということは、なるほどなるほど、ああ、そういうことですか……そう言われれば、そうとしか見えない」
商人の言葉から、やはり自分はプラトラに影響されているのだ、とアシュヴァラは歯噛みし、
「これは釈尊そのものだ」
耳を疑った。
「この美しく穏やかな顔立ち、まさしくあのお方だ。仏像を作ると聞いたときにはどうなるかと思いましたが、いやあ、良い、美しい……」
「返せッ!」
アシュヴァラは商人の手から試作をひったくり、彫られている物を確認する。無心に彫りあげたレリーフに描かれていた、有象無象の奇怪なマーラたちの中心にいる人物――アシュヴァラが釈尊として彫っていた男――の場所にあったのは、美しく微笑むプラトラの顔だった。思わず商人に聞き返す。
「これを釈尊だと?」
「ええ、本当に。そうとしか見えません。この美しい男性が、あの偉大な釈尊でなくて、誰だというのでしょう」
商人はプラトラを知っているはずだ。悪ふざけをしているとも思えない。
しかし不可解だ。アシュヴァラの脳裏に疑問がよぎる。あの男が
――顔でございます、アシュヴァラ様。
再びその言葉が脳裏によみがえる。顔。顔か。プラトラの、美しい顔。それを忠実に彫った……彫ってしまっただけで、ここまでの魔性を有するのか。
自分の中に起こった考えを、バカげていると断じられない理由が、アシュヴァラにはあった。
彫刻は、単なる木や石が、何かの形になったものである。人はその形を見て、心を動かされる。ある形は躍動感を想像させ、またある形は神秘や威光を想像させる。形には力があるのだ。特に、美しい形には。
アシュヴァラは一つ息をつくと、商人を追い返し、工房の端にある竈に向かった。埋まった炭はまだ十分に熱い。彫った木のくずを投げ込むと、すぐに火がついて、燃え上がった。赤くゆらめく火がアシュヴァラの瞳に映る。さらに木くずを投げ込む。そのあたりにあった端材も投げ込む。火が強くなるたびに、アシュヴァラは手あたり次第に燃える物を投げ込んだ。その中には、彫刻に使う刀も含まれていた。
すべてを燃やす。そうしなければ、取り返しがつかない。アシュヴァラは本能的に、そう思った。
「マーラよ」
アシュヴァラは火を見つめながら呟く。
「お前の思い通りになると思うなよ」
試作品のレリーフをかき集め、すべて火にくべる。ごう、と竈から漏れるほど火が燃え上がる。
すでに、己の中に何か壊滅的な破断が生まれてしまったことを、アシュヴァラはわかっていた。プラトラのもつ『美しい形』の力か、あるいは
風が強く吹き、竈から火柱があがった。当然、工房の天井や床にも火がつく。もとよりすべてを燃やすつもりだったアシュヴァラにとって、それは釈尊の導きのようにも思えた。病に罹った動物が群れから離れるように、燃え盛る焚火に身を投げる兎のように、我が身を捧げるのだ。これ以上悪いことが起こらないように。
火の手はたちまちアシュヴァラを飲み込んだ。アシュヴァラは動かなかった。熱にもうろうとしていく意識が、激しい炎の揺らめきの中に誰かの顔を見出しそうになったので、アシュヴァラは目を閉じ、そのまま息を止めた。
◆
「それで、アシュヴァラ様は」
プラトラは沈痛な面持ちで、商人に尋ねた。
「ええ、あの大風で火が煽られたのか、工房ごとまる焼けで……あとには何も、残ってはおりませんでした」
「そうですか、惜しい職人を亡くしました」
ため息を漏らすプラトラの顔を、商人は目で追う。その儚げな長いまつ毛と、伏せた美しい瞳は、商人が扱ったどんな宝石よりも価値があるように思えた。
「ですが……プラトラ様にお渡しすると聞いていた試作品は、私がお預かりしていました」
商人は懐から、一つのレリーフをうやうやしく取り出す。とたんに、プラトラが顔をあげ、その表情がぱっと明るくなった。
「本当か?!」
商人は頷いた。プラトラが微笑んだだけで、商人の心は幸福に満たされていった。
「これが失われるのは、それこそ世界の損失です……一つだけでも、お預かりできてよかった」
プラトラはアシュヴァラのレリーフを受け取ると、満足そうにうっとりと眺める。
「ああ……本当に良いものだ。ありがとうございます。帰りに、少ないがお礼を受け取っていただきたい」
「……これは、釈尊の像、ですな?」
「ええ、わかりますか?」
プラトラが穏やかに微笑んだ。その顔は、レリーフに掘られた釈尊と瓜二つだった。
「それはもちろん。これほど美しく穏やかなお顔は、釈尊以外ありえないでしょう」
商人は恍惚とした顔で口にした。
「釈尊の像は、今でこそほとんど作られてはおりませんが……この作品を皮切りに、きっとたくさん作られるようになるでしょう。傑作とはそういうものです。燃えてしまわなくて、本当によかった」
「ええ。美しい釈尊の姿は、きっと多くの人の、信仰の支えになることでしょう」
プラトラはうなずき、優しく微笑んだ。
「私は、それが嬉しいのです」
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