紀元前460年、インド ②
それから、アシュヴァラの仏像づくりが始まった。
目的はどうあれ、釈尊の姿を彫るのであれば、半端な出来では許されない。アシュヴァラは、自らの人生と修行の、ひとつの総括として、完璧なものを作ろうと心に決めていた。
「顔、か」
まずは習作として、おおよそ人の形に彫った、手のひらほどの大きさの像を見つめていると、そんな言葉がアシュヴァラの口をついた。
プラトラが顔について述べていた言葉は、ある一面で真実である。人間は、顔の造形に敏感だ。足や腕の長さ、関節の位置などは多少ずれていても、一見して違和感を産まないことのほうが多い。しかし、顔の造形は、目や口、鼻の位置、その釣り合いがとれていないと、途端に見る者に大きな違和感を覚えさせる。一時期交流の会った宮廷画家の男は、バラモンの信者であったが、神の絵は目をいれるまで完成しない、などと言っていた。人体や生き物を表現するとき、顔は最も大事な部分と言えた。
(釈尊の顔を、詳細に思い出さなくては)
手に持った素材の木目を指先に感じながら、アシュヴァラは目を閉じ、息を吸って吐いた。思い出すのは、20年前のあの日である。
夜の帳が深く降り、クシナガラの森には凛とした空気が満ちていた。2月の半ばにさしかかろうというその日、アシュヴァラは一人森を訪れていた。師の手伝いでクシナガラ近郊に逗留していたアシュヴァラは、師が眠りについた後、彫刻をするための木を探しに来ていた。腕を磨くためではない。小遣い稼ぎに売る作品を作るためだ。釈尊の教えに厳しい師からは、彫刻の腕を金稼ぎに使うのをきつく咎められていたが、アシュヴァラの知ったことではなかった。
当時からほかの職人たちに匹敵するほどの技術を持っていた若きアシュヴァラは、自分の技術に対して得られる稼ぎの少なさに不満を持っていた。自分が本気を出せば、誰もが大金を出して欲しがるような、美しい彫刻をいくらでも作ることができる。にもかかわらず、ゴータマとかいう見たこともない男の、奇妙な教えに従う師に、ぜいたくを制限されているのは理不尽に思えた。
手ごろな木材を探しながら森を歩いていたアシュヴァラの鼻を、芳しい香りがくすぐった。
「花……?」
沙羅の花の香であった。しかし、おかしい。沙羅が花をつけるのはもうしばらく後のはずだ。不思議に思ったアシュヴァラが森の奥に歩を進めると、人の声のようなものが聞こえてくる。すすり泣く声だ。それも、大勢の人が。
化生の類か。それならばこの目で見てやろう、とアシュヴァラはひるむことなく足を進め、開けた場所にたどり着いた。
何十人もの人が、何かを取り囲み、項垂れてすすり泣いていた。粗末な衣をまとい、頭を剃り上げた人々は、その外見から比丘と知れた。アシュヴァラは視線を彼らに一巡りさせてから、集団の中心へと目をやる。
そこに居たのは、一人の老人だった。骨と皮ばかりの姿で、簡素な敷物を敷いた地面に横臥している。花の香を放っていたのは、老人の周囲に生えた沙羅の木だった。淡い黄色の小さな花が、雲のように月明かりの照らす森に浮かび上がり、この世の物とは思えぬ幻想的な光景を作り出していた。
あれは、誰だ。なぜ彼らは泣いている。
アシュヴァラはもっと老人をよく見ようと、木の陰から目を凝らした。その老人は体を病んでいて、すでに周囲の者たちのように座っていることもできず、横たわっている。歳の頃は80を超えているだろうか。おそらく悪いものを食べ、脱水を起こしているのだろう。皺の刻まれた全身には生気がなく、今にも息絶えそうだ。この老人が死ぬから泣いているのだ、とアシュヴァラは思った。
そこで、老人はゆっくりと、わずかに目を開けた。その目が、アシュヴァラと合った。その瞬間、アシュヴァラの脳内に、一つの確信が走った。
この老人が、沙門ゴータマ。釈尊だ。
アシュヴァラに言わせれば、人間も動物も、顔や目に表れる感情はおおよそ同じだった。すなわち、快・不快に喜怒哀楽。人間の場合はもう少し混み合った表情が重なり合うことがあるが、おおむねそれらの割合の配合であると言えたし、アシュヴァラの観察眼は文字通り感情を浮き彫りにして、躍動感のある彫刻を作った。
しかし、釈尊の表情は違った。静謐で深遠な、今までアシュヴァラがどんな人間にも、動物にも見出したことのない表情。どれだけの人生を送れば、こんな表情ができるのか。これが
そして同時に、釈尊の瞳の、生物としての力のなさは、彼がすでに死にゆく最中であることを克明に伝えた。
釈尊が死ぬ。自分の眼の前で。
アシュヴァラは無意識に手を合わせていた。その心中に嵐のように吹き荒れたのは、今まで彼の教えをないがしろにしていたことへの後悔と、釈尊の死の光景を目に焼き付けなければいけないという使命感だった。
季節外れに咲き誇る沙羅の花。釈尊がこの世からいなくなるという事実に、ただ頭を垂れてすすり泣くしかない比丘たち。囁くような声で、彼らに最後の教えを与える釈尊。その年老いても整った顔立ち、皺を刻まれても黒檀のような肌と、美しい茶色の瞳――。
「茶色ではなかったと思うなあ」
師はレンズ豆のカレーをつまみながら、ぼそりと漏らした。習作を作ってから数日後、年老いた師の様子を見に来たアシュヴァラは、ついでに生前の釈尊について参考までに尋ねたのだった。もちろん、仏像を作ってるのは伏せていた。そんな中で、釈尊の顔についての話が出た時のことだった。
「うん、茶色じゃなくて黒だった気がする、釈尊の瞳は。よく覚えてはいないのだけど」
師は腹を掻き、呑気な顔で続けた。
「しかし」
自分の記憶では茶色だったのだ、と言おうとして、アシュヴァラはその先の言葉を飲み込んだ。入滅のときに遠くからひと目だけ見た自分よりも、幾度か実際に釈尊を見た、師のほうが正確な記憶を保っているはずだ。それに、自分のほうが正しいとして、師はもうずいぶんと老いていて、記憶が曖昧になっているのかもしれない。尊敬する師が衰えていくのは虚しが、それをあまり咎めるのも礼を欠くというものだ。
とはいえ、あれだけ記憶に刻み込んだはずの光景の一部が、記憶に刻み込んだ光景と齟齬があるのは、いささか感情の座りが悪かった。
師はカレーを飲み込んでから、なんとなしに、といった様子で口にした。
「誰かと間違えてるんじゃないかね」
整った美しい顔立ち、黒檀のような肌と、茶色の瞳。アシュヴァラははっとした。それはあの男の――プラトラの特徴ではないか。
「まあ、気に病むなよ。もう20年以上前だ。あの時お前は子どもだったし、一度だけ釈尊を見たあの時も、深夜だったんだろう。光の加減で違う色に見えることだってある」
アシュヴァラが押し黙ったのを、釈尊の容姿を記憶違いしていたことへの申し訳なさからと思ったのか、師は大きな手で彼の背中をたたいた。
「諸行無常さ、アシュヴァラ。記憶に固執するより、教えを思い出して修行に励もうじゃないか」
アシュヴァラはあいまいに返事をするほかなかった。自分の人生を大きく変えたあの日の記憶が揺らいでいることは、恐怖だった。そしてそれが、単なる物忘れや経年劣化によるものであればまだいい。一度会って言葉を交わしただけの男の顔が、釈尊の顔と書き変わっているなど、理解ができなかった。
居ても立っても居られなくなって、アシュヴァラは早々に師の家を後にした。
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