第2話


 目を覚まし朝の支度を整えながら、補佐官から色々な報告を受ける。


涼州騎馬隊りょうしゅうきばたいの姿はとりあえず、今のところは見えていない。

 何もかも今のところは順調だが、一つ気になったのが【隴西ろうせい】あたりに姿を見せていた涼州騎馬隊の姿も見えなくなったという斥候からの情報だった。

 

(まあ奴らが平原でのんびりしてるわけはないし、同じ所に幾日も留まった方がおかしいから……さほど気にしなくてもいいんだろうが。いなくなったと聞くとどこに行ったのかが知りたくなるな)


 しょくの動向も見張らせている。

 これは長安ちょうあん許都きょとも同じで、何かそちらに動きがあれば、曹操や曹丕そうひが対処することになっていた。

 

(俺たちはあくまで涼州に集中だ)


 賈詡かくはいつもの身支度を慣れた手つきで終えると、補佐官がめくり上げた幕舎から外に出た。



「おっ」



 晴れ渡る秋空の下、自分を出迎えた姿に賈詡は一瞬立ち止まった。


「いいねえ。折角だから点呼取ろうか。

 いや全権任されてる将軍を揃って出迎えない方がおかしいからこれが普通の光景なんだけど、君たちいっつも反抗的で誰かしらいないから、全員揃って並んでる景色にちょっと今感動しちゃったよ。すごくいいよ今日の君たちのビシッとした空気」


 司馬懿しばい以外の将官が全員揃っている。

 賈詡は機嫌が良くなった。


「別に俺たちいつも真面目に従ってるよな」


 李典りてんが、隣に立った楽進に耳打ちをした。

 楽進がくしんは笑って頷きながらも「静かにしないと駄目ですよ」という感じで人差し指を口の前で立てる仕草をしている。


陸議りくぎ君、お帰り。夜中に戻ったのかな?」

「はい」

「そうか。徐庶君が陳倉ちんそうあたりで合流出来るだろうと言っていたが、ぴったりだね。素晴らしい」

「ご迷惑をおかけ致しました」

「いやいいんだ。徐庶君とは話せたかな? お母さんは大丈夫だったかい」

「はい」

「そうかそれは良かった。これで君も少しは安心できるな」

 賈詡が軽く徐庶の肩を叩いた。


「私用で、申し訳ありません」

「気にするな。ここからはいよいよ敵の行動範囲内になってくる。

 頼りにしてるよ」


 徐庶は拱手きょうしゅした。

 それに満足そうに頷き、更に足を進める。

 そしてその前に立つと、賈詡は腕を組んで正面から相手を見据えた。


「今日一番嬉しいのはあんたの顔を見れたことだ。

 また勝手に消えやがって先生この野郎おかえり」


 郭嘉かくかは微笑む。


「ただいま」


 賈詡の身体を抱き寄せて、ぽんぽん、と背を叩いた。


「……いや違ぇよ! ただいま♡ じゃねえごめんなさいは⁉」

「ごめんね」

「うっ」


「貴方の言ったとおり、ここからはいつ敵に遭遇してもおかしくない。

 勝手な行動は慎むよ。

 優秀な副官として貴方を支える」


「お、おお…………それはどうも…………ありがとう……。

 あんたが素直だとものすごい調子狂うなオイ…………」


「駄目じゃないですか」

 李典りてんが冷静に突っ込むと、楽進がくしんが側で笑いを嚙み殺している。


「うるさいよ! 先生、殿には会えたのか?」


「うん。会えたよ。お元気そうだった。

 夏侯惇かこうとん将軍ともね。三人で飲んで来た」


「あの二人に飲まされまくって二日酔いで素直になってんじゃねえだろうな」


 賈詡が半眼になって言ったが、郭嘉は涼しい笑みを浮かべて目を閉じただけだ。


「もう一日経ったから。酒は抜けてる。心配はいらない」


「おお……分かった……。

 やっぱあんたが素直だとなんか調子狂うなあ。欲を言えばほどよくふざけててほしいんだけどな。ただふざけまくり過ぎると殴りたくなるからその塩梅がどうもあんたの場合難しい人だねえ」


 司馬懿がやって来た。


「揃っているか」

「はっ!」


 気持ちよく頷けたので、賈詡は満足した。


「よし。今日からの行軍だが。分団して天水てんすいへひとまず向かう。

 しかし先鋒せんぽうは決めねばならん。賈詡」


定石じょうせき通りだと、張遼ちょうりょう将軍にこのままお任せはしたいんだが」


 楽進が一歩、大きく前に出る。


「ここは、私の部隊にお任せ下さい!」

「功を焦って言ってるんじゃないだろうな?」


「はい。天水まではとりあえず平地を行くことになります。

 山岳地帯ともなると経験の浅い私の部隊では、敵の奇襲を受けた時に張遼将軍ほどの強度はないでしょうが、平地ならば奇襲を受けてもまだ対処の方法が色々取れます。

 斥候を飛ばしつつ慎重に駆けますので、どうぞお任せを!」


 きちんと根拠に基づいたので、賈詡は頷く。


「よし。では楽進がくしんに先行を任せよう。李典は楽進部隊の後方を守れ」

「はっ!」

「では、ここからは我々は五丈原ごじょうげんを西に進み、全軍の最後尾から進ませていただく」


「何か感じられますか」

「いや。万一にただ備えてのこと。ご案じ召されるな」


 張遼ちょうりょうの言葉に、賈詡かくは頷いた。

 最後尾と張遼は言ったが、涼州騎馬隊相手では、最後尾は最も狙われる危険が高い。

 張遼はいつも、戦場で最も危険な場所があるならば自分が、と身体を張る勇猛な武将だ。


 それに、彼は戦場の危険地帯を見分ける嗅覚も鋭かった。

 張遼のこの嗅覚も、敵の行動を予測するに当たっては非常に参考になる。

 張遼は先陣を行っても軍の士気を上げるが、殿を任せても、自分達の後ろに張遼軍がいるのならと全軍の精神を安定させることが出来る。


 とにかく戦場ではありとあらゆる局面において重宝する男なのだ。

 やはり張遼を連れて来て正解だったと賈詡は満足する。


「では全軍の最後尾はお任せする」

「承知した。固山こざんの麓あたりを迂回して天水てんすいに向かう」


 聞いていた司馬懿しばいも頷く。


徐庶じょしょ、陸議。小隊を率いてお前達は周囲を警戒しろ」


 二人が揃って、拱手した。


「では天水に向けて出発だ」


 それぞれが持ち場に向かって散っていく。

 司馬懿も自分の軍の方へ歩いて行ったので賈詡は一つ、伸びをした。


「とりあえず、あんたは俺の側にいてくれ」

「うん」


 郭嘉かくかは首元に布を巻き付けて、立襟の紐も締めた。

 いつも喉元緩やかにフワフワさせている郭嘉には珍しい仕草だったので目を引いた。


「体調は大丈夫か?」


「風邪引かないようにしてるだけ。心配いらない」

「まああんたの集中を妨げるほど口うるさくは言わんつもりだが。

 しかしあんたを信頼してそうしてるんだからな。

 体調が悪い時はすぐ言えよ。あんたが陣の後方にいてくれるだけでも魏軍は士気が高くなるんだ。あんたが戦場でやれることは色々あるから。

 そこに寝かせて置いてったりしないからとにかく隠したり騙したりするなよ。

 そういうの使っていいのは行軍中は敵だけだ。味方には使うな。

 俺は嫌だからな。あんたの葬儀で泣きじゃくってる瑠璃るり殿にどうしてあんたを守ってくれなかったんだとか詰られるのは」


「名前出さないで。可愛い妹の顔を思い出して帰りたくなったら困る」


「馬鹿言うな。あんたが妹の顔思い出して思わず寂しくなって、帰ってくれるような可愛い奴なら最初からこっちは苦労しないんだよ」


 郭嘉は笑った。

「分かってるよ」

「ホントかね……」

 賈詡も外套を着込んだ。

 これから西はどんどん気温が下がってくる。


 二人とも騎乗すると、先発する者達を見送りながら、まずはゆっくり馬を歩かせる。


「殿と何の話したんだ」


 自然と、そういう話になった。


「赤壁の話を聞かせてもらった。誰も私に教えてくれなかったから」


 賈詡が思わず郭嘉の顔を見る。

「いや俺も……留守組だったしあんま知らんから……」

「別に貴方のことは責めてない。……いや。誰も責めてないよ。

 ただ知りたかったからね。

 元譲げんじょう殿が詳しく教えてくれた。

 周瑜しゅうゆが仕掛けた【連環れんけいの計】から黃蓋こうがいの【火計かけい】まで、しっかりとね」


 確かにこいつに赤壁のことを話せるのは曹孟徳そうもうとく夏侯元譲かこうげんじょうだけだろうなと思った。


「……ふぅん。んで、どうだった」

「面白かった」

 声を笑わせて、郭嘉かくかが言った。


「実際にこの目で見てみたかったよ」


 明るい笑みだった。


 荀彧じゅんいく赤壁せきへきの詳細と周公瑾しゅうこうきんの死を伝えに行った時、郭嘉は憔悴したような反応を見せたらしいから、もう全ての運命を飲み込んで、単なる知識として己の糧にしたのだろう。

 白面の見た目からは想像できない郭嘉の豪胆さに、賈詡は舌を巻いた。


(確かに涼州騎馬隊は手強い。こいつが軍にいてくれると、心強くはあるな)


 そう思って小さく笑んでしまった。

 

 辛気臭いのは俺も全然好きじゃない。

 派手な戦果を涼州騎馬隊相手にあげたいものである。


「曹魏の水軍が壊滅した後の呉蜀の動きが非常に興味深かったよ。

 馬超ばちょうの手勢は最初から【夏口かこう】の陸地に潜んでいたらしいね」


「ああ……なんか司馬懿しばい殿が言ってたな」


「だとしたら送り込んだのは例の【臥龍がりゅう】だ。

 趙雲ちょううんが更に西の城を落としに掛かったから、魏軍は蜀軍の最前線を見誤って、馬超軍の奇襲を受けてる。あれでよく殿は無事だったよ」


「まあな。赤壁と言えば一つ前から気になってたことがあるんだが」


 郭嘉がこっちを見る。

孫策そんさくが戦死しただろ。あの戦いで。周瑜は江夏こうかの陸地に上陸してたって聞いたが、孫策はどこで死んだんだ」

「戦場の頭に切り替わってきたね賈詡」

「俺は許都きょとから一歩でも出た瞬間からちゃんと切り替えてる。失礼なこと言うな」


「それが分からないんだ。

 孫策を討ったのは魏将じゃない。

 斬り合ったという人間がいないからね。

 だとしたら、あくまで私の見立てだけれど、蜀の武将と戦ったんじゃないかな」


「当然それを、周瑜が知らねえはずないよな?」

「当然だろうね。――彼が送り込んだんだよ。孫策を」


「……何のためにだ?」


「孫策を送り込んだなら殺すためだろうね。彼はそういう働きが専門だ」


 ――【小覇王しょうはおう】孫策。


 袁術えんじゅつの許から離反すると、長江ちょうこうを越え、当時混沌としていた江東こうとう江南こうなんを瞬く間に制圧し、いつしかそんな風に呼ばれるようになった男だ。


 賈詡は周瑜も孫策も実際に見たことがなかった。


「孫策と周瑜ってのは、確か兄弟みたいな間柄って言ってたよな」

「うん。きっと殿と元譲げんじょう殿みたいな存在だったんだろう」

「殿と夏侯惇かこうとん殿は血の繋がりがある。別に他人の二人の仲良しじゃない。

 孫策と周瑜は血の繋がりはないんだろ。

 それなら殿と夏侯惇殿というよりは、殿とあんたの方が幾分表現としては近いんじゃないか」


「まあね。……ただ、幼馴染みだったというし、少年時代を共に過ごしているというから、恐らく信頼関係は血の繋がりほどに強かったと私は思うよ」


「そう思うか」


「あなたは董卓とうたくを知っているんだよね?」

「董卓? 随分懐かしい名だな」


「これは私が、公達こうたつ殿から聞いた話だけれど。

 帝と呂布りょふを手にして誰も恐れなくなった董卓が、当時の……袁紹えんしょうを盟主に集まった反董卓連合の中で、唯一警戒していた人間がいたんだって」


「袁紹じゃないだろうな。あいつは董卓に人間性を読まれてた」


孫文台そんぶんだいだよ」


「孫文台っていうと……――孫堅そんけんか?」


 郭嘉が頷く。

「あの董卓が『孫堅だけは本当の豪傑だから正面から遣り合う面倒は取りたくない』と言っていたらしい。

 董卓は涼州りょうしゅう出身で、武官の能力を見抜く才能があった。

 孫堅は成り上がりだが、実戦で叩き上げられた、確かに本物の豪傑だと言っていいだろうね」


「……。」


「私は、周瑜しゅうゆは孫策というより、この孫堅に心酔していたんじゃないかと思う。

 孫策と幼い頃に会ったというのなら、その父親とも懇意にしていたはず。

 つまり、孫策と周瑜は同じ男を父親と慕っていたんだよ。

 血は繋がってないが、そういう意味では魂で繋がった兄弟と言い表していい」


「魂ね……。

 そういや徐庶じょしょも、劉備りゅうびを『父』とか表現してたな」


 郭嘉が首を小さく傾けた。


「いや。なんでしょくの連中が劉備について行くと思う? って聞いた時に。

 あいつが言ったんだよ。蜀の連中は、主従関係というより父と息子みたいな関係で劉備と繋がってるって。

 それを聞いた時、妙に腑に落ちた。

 だって奇妙だろ? あいつ放浪時代が長かったのに、なんで関羽かんう趙雲ちょううんみたいな優れた武将があいつを見限らないでずっと側にいるんだって。あんな奴の側にいるからあいつらは面倒な戦とか、実りのない戦とか、勝ち目のない戦とかばっかりやらされてる。

 魏軍にあいつらがいてみろ。今の十倍は華々しい戦歴を持ってるはずだ。

 だが確かに劉備が父なら、土地が無かろうが何度負けようが、生きてる限り側にいて盛り立てていこうと、息子はするだろうなってな」


「へえ……徐庶がそんなことを?」


「劉備軍は主従関係というより一つの家族みたいな所があるから、損得勘定において特別な考え方をするってあいつ言ってたぜ。

 仮に劉備が建業けんぎょうに来るよう呉が要求しても、死んでも蜀の連中は劉備を建業にはやらないだろうってな。

 主君だからじゃない。父親だからだ。

 父親を人質に出すような真似、出来ないんだよ」


「徐庶も自分以外のことは随分冷静に分析出来るじゃないか。

 そうだね。確かに……周瑜と孫策も、恐らく実際に血は繋がってなくても、真の兄弟のように互いを思っていたんだと思うよ。

 呉蜀同盟の決裂が自然の成り行きなら、孫策があの夏口かこう上陸部隊にいないのは妙だ。

 にとって、あの戦の勝利は曹孟徳そうもうとくの首を取って決定するものだったからね。

 普通に考えれば孫策は周瑜と共に上陸部隊にいて、曹操殿の首を狙ったはず」


 賈詡も腕を組んで、頷く。


「間違いなくそうだろうな」


「それを敢えて、周瑜が蜀にぶつけてる。

 相当な覚悟だよ。

 周瑜は赤壁せきへきを勝利し、曹孟徳の首を取り、蜀に対して圧倒的な優位性に立つことを、すでに開戦前に思い描けてる。

 あの戦いで周瑜が戦地にばらまいた駒は、全部明確な意味がある。

 無意味な兵の配置など一つもしていない。


 周瑜は、孫策に【臥龍がりゅう】の首を取らせようとしたんじゃないかな」


諸葛孔明しょかつこうめいか? 何でそう思う」


馬超ばちょうの部隊を伏していたと聞いたから。

 周瑜にとって、忌々しい兵の置き方だなと思ってね。

 あの戦いにおいて蜀の果たした役割なんか、小さいものだよ。

 たった一つ戦術として組み込まれてたのが馬超軍の奇襲だった。

 諸葛孔明があの伏兵を命じたのなら、

 そして周瑜が自分の死期をすでに悟っていたなら、彼を孫策に狩らせようとした気持ちは分かる。残った者達が食われないようにね」


「なるほど……【臥龍】をねえ……言われてみれば、その可能性はあるな。

 周瑜はそこまで戦後を見据えてたか?」


「恐らくね。

 彼は並の軍師じゃない。

 能力も、孫呉への忠義もだ。

 呉蜀同盟の破棄の決定打は劉備じゃない。

【臥龍】だ。

 ねえ、賈詡。

 徐庶は司馬徽しばき門下生で臥龍とは同門だ。彼は【臥龍】がどんな人間か知らないかな?」


「んー。でも俺も一回あんた臥龍と鳳雛ほうすうと知り合いかって聞いたけど、あんま親しくないから知らないって言ってたぜ」


 郭嘉は微笑む。


「なら、もう一度聞いてみて。全く姿形も知らない、会ったことがないと言わない限り、何かは知ってるんだろうから」


「ははーん。分かってきたぞ。天才軍師さん」

「ん?」

「あんたさては、周瑜が孫策を送り込んでも取れなかった【臥龍】の首を、自分が取りたいとか考えてるだろ?」


「どうして」


「周瑜の首はもう永遠に取れないからねえ。

 そんなら周瑜が欲しがった【臥龍】の首をあんたが取れれば、周瑜に一泡食わせられるって魂胆だろ?」


「貴方の中で私はどういう人間だと思われてるのかな」

「そんなもん、喧嘩売られたら必ず買う血の気の多い腕白な坊やだよ」


 郭嘉が目を丸くしてから吹き出した。


「そんな印象なの? 私は喧嘩を売られたって内容はちゃんと吟味するよ。下らない喧嘩には付き合わないけどな」


「言っただろ。印象だよ。豪気でヤンチャで恐れ知らずな子供みたいなとこあるからな。あんたは。周瑜が強いと分かれば絶対負かしたくなる。

 綺麗なツラしててもあんたは闘争本能の塊だ。

 だから今回だって涼州遠征に出て来たんだろ」


「君だって出て来てるじゃない」


「俺様は涼州出身だから重宝されただけだ。

 涼州出身じゃなかったら涼州遠征なんかに俺は帯同しない。

 俺が潁川えいせん出身だったらこの冬くらい、留まってほしいって泣いてる可愛い妹と実家で暖かくしながらのんびり過ごすよ」


 郭嘉は「ふーん」と言ったが、珍しく彼を黙らせた賈詡は満足だった。


「とにかく徐庶にもう一回聞いてみてよ。【臥龍】のこと」

「【鳳雛ほうすう】のことは?」

「もうこの世にいない人のことはいい」


 郭嘉は一度そう言ったが、少し考えて首を振った。


「……いや。違ったね。動物は死んだらそこで終わりだけど。

 人間は死んでも何かを残すことは出来る。

 周公瑾しゅうこうきんの死のあと、孫呉そんごは総崩れにはなってない。

 周瑜しゅうゆは死んだが、何かを残したからだ。

【鳳雛】も死してなお、残した何かがあるかもしれない。

 ……そうだね。彼のことも徐庶じょしょに一応聞いておいて。

 何でもいい。どんな人間だったかでも分かれば彼がどういう行動に出る人間か、予測出来ることはあるかもしれない」


「わかった。臥龍と鳳雛のことは、もう一度徐庶に聞いてみる」


「うん。頼むよ」


 郭嘉かくかが、ひどく何かに集中し始めていることに賈詡は気付いた。

 じっ、と前の、遠くを見据えている。

 内心を決して読ませないその整った横顔に、賈詡かくはある時少しだけ眉を寄せた。


(俺が敵の間者なら、今すぐこいつの脇腹を刺せるな)


 集中すると、莫大な何かを郭嘉は頭の中で考え始める。

 そしてとても遠くの未来のことも。

 そうしている間はこんなに自分の周囲への意識が疎かになるのか。



諸刃もろはの剣だな)



 賈詡が、郭嘉と戦場を共にするのは、実は北伐遠征で北平ほくへいまで攻め上がった時だけだった。

 それより前も同じ魏軍にはいたのだが、戦場としては自分がいなかったり、郭嘉がいなかったりして鉢合わなかった。


 ただ北伐ほくばつの時に見かけた郭嘉には、ここまで無防備な危険さは感じなかったように思う。

 こいつが変わったのか、一度大病をした人間だと知ってる自分の見方が変わったのか。

 分からないが、一体曹操はこんな危なかしい奴を、どうやって戦場に連れて行っていたんだと疑問に思った。


 確か、自分の傍らに置いていたのだ。

 曹操そうそうの側には凄腕の近衛がいるから、まとめて郭嘉も護衛させていたのだろう。

 賈詡は気づき、自分の補佐官を呼んだ。


司馬懿しばい殿の所の、陸議りくぎを呼べ」


「はっ」


 すぐに離れた補佐官が陸議を連れてくる。

 陸議が馬でやって来ると、賈詡は頷いた。


「陸議。さっきは徐庶じょしょと周囲を警戒しろと言ったんだが。

 それは徐庶に任せて、お前は郭嘉の側にいてくれ。

 あいつが動いたら共に行って、とにかくあいつの周囲に気を配ってやってくれ。

 司馬懿殿から何か任された時はそれを優先して、代わりの者を側に置いてくれればいい。

 お前がいられる時は、必ず側にいてくれ。

 お守りのような仕事を任せて済まんが」


「分かりました。その通りに致します」


 陸議は無口だが勤勉で、戦場の色々な所を見て、色々なことを感じ取っているのが分かる。細心なのだ。一歩離れたところから目の前の人たちを見ているような所があって、その感覚が、今も背中がガラ空きになって先を馬で歩かせている郭嘉の側にあると、賈詡は少し安心だった。


「なにか」


「いや。郭嘉が何かに集中し始めてる。

 ぽわぽわ洛陽らくよう長安ちょうあんをうろついてた時と、明らかにあいつの空気が変わった。

 その代わり全然自分の周囲に意識が行ってない。

 見てて危なかしい。

 暇なら俺も見ておくんだが、俺は全軍と涼州騎馬隊に集中しなきゃならん」


「分かりました」

「うん、頼むぞ」


 陸議が馬を進めていって、郭嘉の近くに行った。

 近くだが、それと同時に郭嘉の意識の邪魔にならないほどには距離を開けている。

 あれなら俺も、郭嘉に恨み言を言われなくて済む。

 賈詡は安堵した。


(若いけど、あれは随分仕事出来る副官だな。

 司馬懿殿が重宝する理由がちょっと分かる)


 距離を開けておけ、など一言も言わなかったのに自然とそうした。

 恐らく司馬懿も集中する時は人が寄るのを嫌うことがあるから、自然とああいう意識になっているのだろう。


 少し安心し、もう一度郭嘉を見る。


(曹操殿と一体何を話して来たんだか)


 赤壁の話をしたと言っていたが、無論それ以上の話もしただろう。

 

(曹操は郭嘉の涼州遠征を止めるかとも思ったんだが)


 止めるどころか一撃でここまで集中させて来た。

 さすがは【乱世の奸雄かんゆう】と言われた男だ。

 

『人間は死んでも何かを残せる』などと、

 郭嘉に納得させられるのは確かに曹孟徳そうもうとくしかいない。


 曹操は「死んだら人は終わりだ」とよく言っていた。

 しぶとく生き残るのが第一だと。

 劉備などは、曹操からすると自分の命を軽んじているように思えるくらいだろう。

 あの男は自分の仁義が守れるならば、命など惜しくはないというような振る舞いをすることが昔からあった。

 

 曹操は劉備りゅうびを一定値、評価はしているが嫌ってもいる。

 曹操が劉備を嫌う理由は多分、命を惜しまない愚かさがあるからだ。


 曹操も自ら戦場に立つ指揮官であり、

 大きな戦や死が迫るような場所では、命を惜しまない勇敢さも見せる。

 それでも、それは本能的にやらねばならないことを夢中でやっているだけで、理想を語る暇とは全く別のものだ。


 曹操自身は「死んだら人は終わりだ」と思い、生きてきた。

 多くの人間の命を失わせながら、生き残って来た。

 

 劉備もそれは同じなのに、平然と「大義のためなら自分の命などいらぬ」などと格好つけて言うところが嫌いなのだろう。


 郭嘉は病魔に冒されて、死にかけた。

 また違う、別の命の失い方だと思う。


(しかもこいつはまだ若い)


 やりたいことが多すぎて、夢ばかりで、病で弱ってただ死んでいく状況など、悟りを開いた坊主でさえ簡単には受け入れられないはずだった。


 郭嘉も「死んだら人は終わりだ」と心の底から思っている。

 

 そう思ってこいつは五年間、力の限り死病と戦ったのだ。

 終わりにしたくないからだ。


 周公瑾しゅうこうきんが死んだと、郭嘉に伝えた時、長い付き合いの荀彧じゅんいくでも、郭嘉が見たことのない顔をしたと言っていた。

 狼狽し、衝撃を受け、打ちのめされていたと。


『死んでしまうのではないかと思った』


 そう表現するほどに、周瑜しゅうゆの病死は郭嘉に動揺を与えた。

 しかし周瑜の死の後も総崩れになっていかないの姿に、もしかしたら一番安堵したのは郭奉孝かくほうこうなのかもしれないと、その時初めて賈詡は思った。

 

 周瑜が死して残した何かで、呉は生きている。


 赤壁で周瑜に大敗し、いよいよ権力譲渡の流れに持って行かれた曹操と。

 周瑜の死を越えて行こうとしている呉に、確実に感情を持っている郭嘉。


(どんな話をしたんだか)


 例によって長安ちょうあんの側を通った時ふらりといなくなった郭嘉が、曹操に会いに行ったことは分かっていたが。


 こんなに集中し、戦う準備を整えて戻ってくるとは思わなかった。



(油断してたらこっちの首まで取られそうだ)



 賈詡は苦笑し、平原を走り出していく自軍を見つめた。


 いよいよ命の遣り取りが始まる。


 誰が生き残って、

 誰が死ぬかだ。


 出来る限りその被害を少なくし、長安に連れ帰るのが総指揮を執る自分の役目。


 郭嘉はまだそこまでのことを考えられてない。

 戦うことしか考えていない。



(さすがは戦の申し子)



 凡人の俺にはまったく、手が掛かる。






【終】

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花天月地【第40話 異境の星、荒野の風】 七海ポルカ @reeeeeen13

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