花天月地【第40話 異境の星、荒野の風】
七海ポルカ
第1話
夜中飛ばして、まだ空も明けない刻限、
ホッとする。
すでに
分団し行軍予定だったため、
しかし軍団長は軍議に参加する必要があり、この本陣に戻っているはずだ。
夜営に近づくと見張りがいたので、馬から下りて近づいていく。
「
見張りは分かっていたようで「ご苦労様です」と頷き、すぐに通してくれた。
「
「ありがとうございます」
馬を引いて、歩いて行く。
すぐに通されて、ホッとした。
徐庶は見張りに話をしてくれていたらしい。
司馬懿の近衛は陸議を知っていたため、姿を見ると敬礼して迎えた。
やはり特に驚く様子もなかったので安心する。
まだ夜中だ。
眠っているだろう司馬懿を起こすのはやめた。
「
「司馬孚殿はあちらの幕舎です」
頷いて、見張りに挨拶をし、そっと小さな幕舎に入った。
司馬孚が眠っている。
彼は従軍は初めてだ。
静かに近づいていくと側に布が数枚落ちていて、何かなと思うと詩の読み掛けだった。
司馬孚は学院で学んだ友人達と定期的に色々なことを題材に、詩などを作っては文の遣り取りをしているのだ。拾って側に置いておく。
それから驚かせないように膝をついてしゃがみ込み、そっと背を押さえるようにして、名を呼んだ。
「……
叔達はすぐに目を覚ました。
「
「すみません。所用で陣を離れていましたが、ただいま戻りました」
「はい。
良かった。この様子では問題なかったのだろう。
「何か行軍中、問題などはありませんでしたか?」
司馬孚は目を瞬かせてから、優しい表情で頷いた。
「はい……。何も滞りなく。心配はありません」
自分が不安そうに思えたのだろうか、そんな風に答えた司馬孚を陸議は優しく見下ろす。
彼の身体に覆い被さるようにして、抱きしめた。
安堵が胸にある。
司馬孚は司馬懿の側にいたはずだから、
自分の不在が変に気にはされてないのがそれだけで分かった。
遠征初日から発熱し、倒れたなんて司馬懿に言えるものではない。
自分が問題になっていなくて心の底から安堵した。
司馬孚は少し驚いたような表情を見せたが、ゆっくりと陸議の身体を抱きしめる。
彼は彼で、慣れない行軍に気を張っていて、それでも陸議の顔を見ると安心出来たから帰還を心密かに待っていたのだ。
「無事にお戻り下さって、良かった。伯言さま」
しばらく目を閉じ、静かな夜営の空気を聞いたあとゆっくりと陸議は身を起こす。
起きようとした司馬孚の額を押さえて、そっと撫でた。
「……いいんです。まだ夜中です。起こしてしまってすみませんでした。
叔達殿。まだ眠っていて下さい」
優しい声でそう言うと、司馬孚は目を瞬かせてから「はい」と素直に頷いて目を閉じた。
しばらく司馬孚の寝顔をそこで見下ろしたが、静かに立ち上がり幕舎を出る。
まだ夜営は眠りに沈んでいる。
徐庶に声を掛けたかったが今は休んでいるはずだ。
陸議は頭をきちんと切り替えようと思った。
ここからの行軍はいよいよ敵の遭遇範囲内に入ってくる。
小高い丘の夜営の端から、遙か西を見やった。
このまま三軍に分かれて天水まで進むことになる。
ガリガリと小石を使って、頭の中の地形を地面に描いた。
地形を書いた後、河の流れをゆっくりと線で引く。
地面に腰を下ろし片膝を立てて、そこに頬杖をつき、地形を見つめた。
そういえば
賈詡がどれを選んだのかは分からないが、これかなと思うあたりに石を置いてみる。
まず
(もし、天水を過ぎても迎撃の気配がないなら……)
三つの石を置いた中の一つに、ゆっくりと円で丸をする。
側の石にもたれかかって地形を眺める。
少しは眠らないとなと思って目を閉じた。
川の音が遠くに聞こえた。
色々悩んで言葉を書き出していて、少し見かけたそれを思い出し、小さく笑んだ。
「――
うと……、としかけたとき声を掛けられて、心臓が跳ね上がった。
振り返るとそこに徐庶が立っている。
彼は、腰に剣だけ下げて上着を羽織った姿だった。
「戻られたのですね」
慌てて陸議は立ち上がった。
「徐庶殿、」
「良かった。こちらの方は滞りなく……」
「――すみません!」
近づいて来た徐庶が、突然陸議が頭を深く下げたのを見て、驚いたように立ち止まった。
「えっ?」
「今回は本当に、徐庶殿にご迷惑をお掛けして……申し訳ありませんでした。
あの……洛陽に行く前、意地を張って、貴方にも本当に失礼な態度を取ってしまって」
「陸議殿。いいんです。何も気にしていませんから。
……ところでそんなところで何をなさっていたのですか?」
徐庶はもう一度歩き出して来ると、地面に描かれた地形を見た。
そして、こんなところでうたた寝して朝を迎えようとしていた陸議に、何とも言えない表情を向ける。
「……陸議殿、折角熱が下がったのにこんなところで休んでいては……」
「あ、いえ私は……」
「今から幕舎を用意してもらうのも忍びないと思っておられるのは分かりますが。
どうぞ私の幕舎を使って下さい。私も今戻るところです」
「いえ、徐庶殿、あの……私は司馬孚殿の幕舎で休ませていただくつもりだったので」
「司馬孚殿の?」
「は、はい。そうしていいと言っていただいてるので。それで、あの……あの、これを母君から預かって参りました」
思い出したように陸議は懐から赤い布に包んであった朱色の飾り紐を取り出した。
「戦で、どんなものが役に立つか分からないと仰って。
でも、これは非常に丈夫に結い合わされた紐ですから何かの役に立つでしょうと、預かって来ました……」
徐庶は飾り紐を受け取った。
「そうでしたか。ありがとうございます」
「いえこちらこそ……ご実家にまで押しかけてしまって、母君にまで看病をさせてしまって…………あの……本当に恥じ入るばかりです」
「私が連れて行ったんですから、あれを『押しかけた』とは言いませんよ。
それに元々、洛陽の街には行かないつもりだったのですが、貴方のおかげで立ち寄る気になった。丁度助かったんです」
「いえ……」
「母は貴方の看病を?」
「はい。側にいて下さり、医者を呼び、薬湯を作って下さいました」
「そうですか。では私では無く、母に報いて下さるつもりで私の幕舎にいらしてください。
また貴方をそんなところで寝かせて風邪でも引かせたら、激怒されます」
「いえあの……」
風邪なんか引かないと力一杯言いたかったが、熱を出したばかりなので陸議は閉口した。
「さぁどうぞ。まだ明けるまで数時間ありますから」
徐庶は歩き出し、近くにいた見張りに挨拶をして幕舎の幕をあげた。
陸議は気が進まなかったのだが、これ以上ごねても迷惑を更に掛けるだけだと思って、決意して幕舎に入る。
「寝床を使って下さい。
貴方は遠慮されるでしょうが、私はもう、ここで休むので」
徐庶は言った通りすぐに上着を羽織ると、畳んであった布を広げ、包まり、幕舎の反対側に横になってしまった。
一瞬、自分もせめて地べたに寝ようかと思ったのだが、いつか同じようなことをしようとして「戦場では休める奴は必死に休め。それが将兵の使命だ」と叱られたことを思い出した。
空いている寝台を空にして人間が二人地べたに寝るなど、そんな贅沢は戦場では許されないのだ。
これ以上ご迷惑をとか、悪いですから、などと言って時間を取らせた方が徐庶の迷惑になる。
彼も早く休みたいはずなのだから。
「すみません。使わせていただきます。ありがとうございます」
ふと目を閉じ「私は早々に眠りましたよ」という仕草を見せていた徐庶が瞳を開くと、陸議が自分に向かって深く頭を下げたあと、寝台に乗って寝そべるのが見えた。
こちらに背を向けて、身体を丸めるようにして横になっている。
(……この人は何故、いつもこんなに不安そうなんだろう)
陸議の背を見ながら、徐庶は思った。
【
確かに厳しい物言いをする人ではあるが、司馬懿が些細なことで陸議に失望するとはどうしても思えない。
そうしてもらえる、感謝。
その重圧はあると思うが、
それが重いのだろうか?
司馬懿は次期皇帝となる
ただ、陸議の周囲にある緊迫した雰囲気は、そういうものではないのだ。
『私にはもう後が無いんです』
喉元に剣を突きつけられた人のようなことを言うんだな……、
人に追われていた過去がある徐庶は、強い不安を抱えた人間が、なんとなく分かるのだ。
彼らの行動に表れる焦りや緊張――そういうものだ。
別に気付きたいわけじゃなくても、感じ取ってしまうのである。
そしてつい気になってしまう。
(だめだな。ちゃんと遠征に集中しないと)
目を閉じた。
しかし……すぐもう一度開く。
なんとなく、これだけ離れていても陸議が起きているのが分かる。
「……
数秒後、向こうを向いていた陸議がこちらを振り返った。
「え……?」
「先程地面に図を描いていらした。三つ小石が置いてあったけど、
あれは
「あ……」
「
小さく陸議が頷いたのが見える。
「あ、はい…………あの、どこにするか、聞いてらしたなと思って……」
「すでに賈詡殿には提出したのですが。賈詡殿の候補地の中にも
他に
「……徐庶殿はどこを選ばれたのですか?」
肩を縮こめていた陸議が、少しだけ首を毛布から覗かせる仕草を見せた。
緊張を興味が凌ぐと、彼の琥珀の瞳は明るく輝いて見えた。
ふとその表情を見て、徐庶はこの前
この緊張はむしろ大きな意味合いを持つ涼州遠征を、何としてでも成功させなければという覚悟と、自分達のように初めて組む将官達に対するものなのかもしれない。
あまり気にしなくてもいいのだろうか。
「
徐庶が小さく笑んで答えると、陸議は一瞬同じだ、という感じで表情を明るくして、何かを言おうとしたように口を開きかけたが、すぐに今が夜中であることを思い出したらしく「……おやすみなさい」と口を閉ざして毛布に潜り込んだ。
目を閉じている。
何か、何故そこを選んだのか聞きたがったように見えたが、無理に目を閉じた様子は
眠ろうという努力の姿勢が見えたので敢えてもう声は掛けないことにした。
夜営地は静かだった。
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