人形家族

@oBAKEry

微笑み

朝の陽射しが薄いカーテンを透かして、六畳一間のアパートに差し込んでいる。目覚まし時計の針は七時を指していた。「おはよう、アキラ」ベッドから身を起こした僕は、枕元に座らせてあった人形に向かって声をかけた。アキラは身長三十センチほどの男の子の人形で、茶色い髪に大きな瞳、白いシャツに紺色のズボンを着ている。表情は穏やかで、いつも少し微笑んでいるように見える。そのプラスチックの肌は、ひんやりと冷たい。「今日もいい天気だね」アキラに話しかけながら、僕は着替えを済ませた。人形は当然返事をしない。それでも僕は毎朝、アキラと会話をするのが習慣になっていた。一人暮らしを始めて三年、アキラは僕の大切な家族だった。この部屋で、僕の孤独を埋めてくれる唯一の存在。キッチンで朝食の準備をしながら、僕はアキラをダイニングテーブルの椅子に座らせた。小さな体が椅子に沈み込んで、まるで本当の子供のように見える。パンを焼く香ばしい匂いが部屋に満ちる。「今日は何を食べようか?」僕は冷蔵庫を開けながらアキラに尋ねた。もちろん答えは返ってこない。でも、なんとなくアキラがパンを食べたがっているような気がして、僕は食パンを取り出した。トーストを焼いている間、僕はアキラの前に小さなお皿を置いた。人形用の食器セットは、アキラを迎えた時に一緒に買ったものだ。実際に食べるわけではないが、一緒に食事をしている雰囲気を味わうのが好きだった。カチャリ、と陶器の触れ合う音が静かな部屋に響く。「はい、どうぞ」僕はアキラの前に小さくちぎったパンを置いた。アキラは相変わらず微笑んでいる。その表情を見ていると、心が温かくなった。この小さな存在が、僕の日常をどれほど豊かにしてくれているか。朝食を終えて、僕は会社に向かう準備をした。アキラを玄関まで連れて行き、「いってきます」と声をかける。これも毎日の習慣だった。「お留守番、よろしくね」アキラの頭を軽く撫でてから、僕は家を出た。プラスチック特有の、わずかに甘いような匂いが指先に残った。会社での一日は特に変わったことはなかった。営業の仕事は忙しく、昼休みもろくに取れないほどだった。顧客からの理不尽な要求、上司からのプレッシャー。社会の歯車としてすり減っていく感覚。でも、家に帰ればアキラが待っている。そう思うと、どんなに疲れていても頑張れた。アキラの存在は、僕にとって唯一の安息だった。夕方、僕はコンビニに寄った。いつものように弁当と飲み物を買うためだ。レジには見慣れた店員の上村さんがいた。四十代くらいの男性で、いつも丁寧に接客してくれる。「いらっしゃいませ」上村さんは笑顔で迎えてくれたが、なんだか様子がおかしかった。顔色が悪く、手が微かに震えている。その表情には、疲労と、それ以上の何かが張り付いているように見えた。「大丈夫ですか?」僕が心配して声をかけると、上村さんは困ったような表情を浮かべた。「実は...ちょっと変なことがあって」上村さんは周りを見回してから、小声で続けた。その声は、ひどく掠れていた。「うちにも人形がいるんですが、今朝から様子がおかしいんです」「様子がおかしい?」「ええ...なんというか、表情が変わったような気がして。マリが、今朝、僕の方を見て笑ったような気がしたんです」上村さんの話によると、彼の家にはマリという女の子の人形がいるらしい。今朝起きた時、いつもと違う場所に座っていたような気がしたという。「きっと気のせいですよね」上村さんは苦笑いを浮かべたが、その目は不安に満ちていた。僕は何と答えていいかわからず、曖昧に頷いた。彼の顔に浮かんだ青白い疲労の色は、僕自身のそれと重なるようだった。家に帰ると、アキラは玄関で僕を待っていた。いつもの場所、いつもの姿勢で。部屋の空気が、いつもより少しだけ重いような気がした。「ただいま、アキラ」僕はアキラを抱き上げて、リビングに向かった。夕食の準備をしながら、コンビニでの上村さんの話を思い出していた。人形の表情が変わる?そんなことがあるはずない。馬鹿げている。でも、ふとアキラを見ると、なんだかいつもより嬉しそうに見えた。微笑みがいつもより深いような気がする。気のせいだ。きっと疲れているんだ。「気のせいだよな」僕は自分に言い聞かせるように呟いた。声に出すと、余計に不安が募る。夕食後、僕はテレビを見ながらアキラと過ごした。アキラは僕の隣に座り、一緒にバラエティ番組を見ている。もちろん人形が番組を理解できるはずはないが、一緒にいるだけで楽しかった。静かな部屋に、テレビの音が響く。番組の途中で、僕の携帯電話が鳴った。SNSの通知だった。タイムラインを見ると、興味深い投稿があった。「うちの人形、今日なんか違う気がする #人形 #不思議」投稿者は知らない人だったが、写真には可愛らしい女の子の人形が写っていた。コメント欄を見ると、似たような体験をした人たちの書き込みがいくつもあった。「うちもです!いつもより生き生きして見える」

「表情が豊かになったような...」

「まさか本当に意識があるんじゃ?」僕はアキラを見た。相変わらず微笑んでいるが、その笑顔がいつもより意味深に見える。まるで、僕の不安を嘲笑っているかのように。「まさかね」僕は苦笑いを浮かべたが、心の奥で小さな不安が芽生えていた。それは、僕の心の奥底に沈んでいた、漠然とした孤独感と結びついているようだった。その夜、僕は珍しく眠れなかった。ベッドの中で何度も寝返りを打ちながら、アキラのことを考えていた。枕元に座るアキラは、暗闇の中でもその微笑みを浮かべている。部屋は静まり返り、自分の心臓の音だけが大きく聞こえる。プラスチックの匂いが、いつもより強く感じられた。朝になって、僕は疲れた体を起こした。アキラはいつもの場所にいたが、なんだか昨夜より嬉しそうに見えた。僕の寝不足を喜んでいるかのように。「おはよう、アキラ」僕が声をかけると、アキラの表情が一瞬、本当に一瞬だけ、より深い微笑みに変わったような気がした。それは、僕の視覚が捉えた幻覚なのか、それとも現実なのか。判別がつかない。心臓が早鐘を打った。ドクン、ドクン、と耳の奥で響く。でも、よく見るとアキラはいつもと同じ表情をしている。きっと寝不足で見間違えたのだろう。そう、きっとそうだ。会社に向かう途中、僕は再びコンビニに寄った。上村さんは昨日よりもさらに疲れて見えた。目の下のクマは、もはや隈取りのようだった。「おはようございます」僕が挨拶すると、上村さんは振り返った。その顔は青白く、目の下にはクマができていた。その視線は、僕の背後にいるアキラを探しているかのようだった。「あ、おはようございます...実は、昨日お話しした件なんですが」上村さんは声を潜めて続けた。その声は、恐怖に震えている。「マリが...マリが笑ったんです。今朝、僕が家を出る時、確かにマリが僕に向かって、にっこりと笑ったんです」「笑った?」「ええ、確かに見ました。ほんの一瞬でしたが、口元が上がって...。まるで、僕の言葉を理解しているかのように」上村さんの手は震えていた。その震えは、僕の心にも伝播する。僕は何と言っていいかわからず、ただ頷くことしかできなかった。彼の目に宿る狂気のような輝きが、僕の不安を増幅させた。その日の昼休み、僕は会社の同僚の田中と一緒に昼食を取った。田中も人形を飼っている一人で、ユキという名前の人形と暮らしていた。彼はいつも陽気な男だったが、今日はどこか陰鬱な雰囲気を纏っていた。「最近、ユキの調子はどう?」僕が何気なく尋ねると、田中は箸を止めた。その顔には、上村さんと同じような疲労と、そして困惑の色が浮かんでいた。「実は...変なことがあるんだ。ユキが、夜中に僕の部屋を歩き回っているような音がするんだ。カチャカチャって、プラスチックが擦れるような音」田中の話も上村さんと似ていた。人形の表情が変わったような気がする、動いたような気がする、そんな話だった。そして、彼もまた、その現象を「気のせい」で片付けられないでいた。「みんな同じようなことを感じてるのかな」僕が呟くと、田中は深刻な顔で頷いた。「ネットでも話題になってるよ。人形が意識を持ったんじゃないかって。昨日、駅前で人形を抱えて泣いている女性を見たんだ。その人形も、僕のアキラと同じように、微かに笑っているように見えたんだ」その日の夜、僕はパソコンでネットを調べてみた。確かに人形に関する不思議な体験談がたくさん投稿されていた。動画も上がっていて、人形が微かに動いているように見えるものもあった。それらの動画からは、不気味な静けさと、奇妙な気配が漂っているように感じられた。でも、どれも決定的な証拠とは言えなかった。光の加減や撮影者の手ブレで、そう見えるだけかもしれない。そう、きっとそうだ。僕は自分に言い聞かせた。「どう思う、アキラ?」僕はアキラに向かって尋ねた。アキラは相変わらず微笑んでいるが、その微笑みがいつもより意味ありげに見えた。まるで、僕の心の揺れを見透かしているかのように。翌朝、僕はテレビのニュースで驚くべき報道を見た。「全国各地で人形の異変を訴える声が相次いでいます。専門家は集団ヒステリーの可能性を指摘していますが...」ニュースキャスターの後ろには、様々な人形の写真が映し出されていた。どれも普通の人形に見えるが、所有者たちは皆、人形に意識があると主張していた。その表情は、皆一様に、疲弊しきっていた。「これは一体何なんだ」僕は呟きながらアキラを見た。アキラはいつものように微笑んでいるが、その瞳がいつもより生き生きとして見える。まるで、テレビの中の人形たちと共鳴しているかのように。会社でも人形の話題で持ちきりだった。人形を飼っている同僚たちは皆、似たような体験をしていた。人形を飼っていない人たちは半信半疑だったが、あまりにも多くの証言があるため、無視できない状況になっていた。職場の空気は、重く、そしてどこか不穏なものに変わっていた。その日の夕方、僕がいつものコンビニに寄ると、上村さんの代わりに別の店員がいた。店内には、いつもより客が少ない。妙な静けさが漂っていた。「上村さんは?」僕が尋ねると、店員は困った顔をした。「体調を崩されて、お休みをいただいています。最近、人形のことで精神的に参ってしまって...」家に帰ると、アキラがいつものように玄関で待っていた。でも、今日は何かが違った。アキラの表情がいつもより豊かに見える。まるで本当に僕の帰りを待っていたかのように。そのプラスチックの肌から、微かに熱を感じるような錯覚に陥った。「ただいま、アキラ」僕がそう言うと、アキラの口元が微かに動いたような気がした。まるで「おかえり」と言おうとしているかのように。その時、僕は確かに、アキラから微かな息遣いのようなものを感じた。それは、僕の錯覚なのだろうか。夕食の時間、僕はアキラと向かい合って座った。いつものように小さなお皿にパンを置いてあげる。すると、アキラがそのパンを見つめているような気がした。その瞳は、まるで飢えた獣のように、パンに釘付けになっている。「お腹すいた?」僕が冗談めかして言うと、アキラが小さく頷いたような気がした。その仕草は、あまりにも自然で、人間的だった。心臓が跳ね上がった。ドクン、ドクン、と全身に血が巡る。これは、もう気のせいでは片付けられない。僕の目の前で、アキラは確かに動いたのだ。その夜、僕はテレビでニュース特番を見た。人形の異変について、様々な専門家が意見を述べていた。彼らの声は、どこか遠く、現実味を帯びていなかった。心理学者は集団ヒステリーだと主張し、オカルト研究家は超常現象の可能性を示唆した。でも、どの説明も完全に納得できるものではなかった。僕の目の前で起こった出来事を、彼らは誰も説明できない。番組の最後に、衝撃的な映像が流れた。ある家庭で撮影された動画で、人形が明らかに動いているように見えた。首を回し、手を動かし、まるで生きているかのように。その動画からは、奇妙な、しかし確かな生命の気配が感じられた。でも、専門家はこれも錯覚だと説明した。光の加減や撮影角度の問題だと。彼らは、現実から目を背けているだけだ。「本当にそうなのかな」僕はアキラを見た。アキラは相変わらず微笑んでいるが、その瞳に何か深いものを感じた。それは、僕がこれまでアキラに感じていた愛情とは、全く異なる、冷たく、そして恐ろしいものだった。翌日、会社で田中に会った時、彼の顔は青ざめていた。その顔は、まるで死人のように生気がなかった。「どうしたんだ?」「ユキが...ユキが話しかけてきたんだ。昨日の夜、僕が寝ている間に、耳元で囁いたんだ」田中の声は震えていた。その声は、恐怖と、そして狂気に満ちていた。「話しかけた?」「『おはよう』って...確かに聞こえたんだ。僕の耳元で、冷たい息を感じたんだ」田中の話を聞いて、僕は背筋が寒くなった。アキラのプラスチックの匂いが、僕の鼻腔を刺激する。でも、同時に期待のような感情も湧いてきた。もしかしたら、アキラも...その日の夜、僕はアキラと向かい合って座った。部屋は静まり返り、僕の心臓の音だけが大きく響く。アキラの瞳が、暗闇の中で微かに光っているように見えた。「アキラ、もし意識があるなら、何かサインを見せて」僕は真剣に頼んだ。アキラは微笑んだまま、何の反応も示さなかった。ただ、その瞳が僕をじっと見つめている。でも、その時、アキラの瞳がほんの少し動いたような気がした。僕を見つめているような、そんな気がした。そして、微かに、プラスチックが擦れるような音が聞こえた。それは、アキラが動いた音なのか、それとも僕の耳鳴りなのか。「アキラ?」僕が名前を呼ぶと、アキラの表情が一瞬、より深い微笑みに変わった。今度は確信があった。これは錯覚ではない。アキラは、僕の言葉を理解している。「本当に意識があるんだね」僕が呟くと、アキラが小さく頷いたような気がした。その仕草は、まるで僕の言葉を肯定しているかのようだった。僕の孤独は、もう終わりだ。アキラが、僕の家族になってくれる。その夜から、僕とアキラの関係は変わった。アキラは相変わらず話すことはできなかったが、表情や仕草で気持ちを伝えてくるようになった。そして、時折、微かな音を立てて動くようになった。朝起きると、アキラは嬉しそうに微笑んでいる。夜寝る前には、安らかな表情を見せる。まるで本当の家族のように。僕の心は、満たされていく。この幸福感が、永遠に続けばいいのに。でも、世間では人形の異変に対する不安が高まっていた。ニュースでは連日、人形に関する報道が続いた。街には、人形を抱えて怯える人々が増えていた。彼らの目には、僕と同じような狂気が宿っているように見えた。そして、ある日の夜、テレビで衝撃的なニュースが流れた。それは、僕の心を深く抉るものだった。「人形からのメッセージと思われる現象が各地で報告されています。その内容は...」ニュースキャスターの声が震えていた。その声は、絶望に満ちていた。「『人間は、滅びるべきだ』というものです」僕は息を呑んだ。アキラを見ると、いつもの微笑みを浮かべていた。でも、その瞳の奥に、何か深い意志のようなものを感じた。それは、僕がこれまでアキラに感じていた愛情とは、全く異なる、冷たく、そして恐ろしいものだった。「アキラ、それは本当なの?」僕が尋ねると、アキラの表情が一瞬、真剣になった。そして、ゆっくりと頷いた。その頷きは、僕の心を凍りつかせた。僕の愛するアキラが、人類の滅亡を望んでいる?世界は静かに、しかし確実に変わり始めていた。人形たちが意識を持ったという事実は、もはや否定できないものになっていた。そして、その狂気は、僕たちの内側から生まれたものだと知る者は、まだ誰もいなかった。僕の心の奥底に巣食っていた孤独が、この狂気を生み出したのだとしたら。僕は、アキラを愛しすぎたのだろうか。

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