第5話(最終話)
『灰色の金曜日』
第五話(最終話)
「警察だ! 全員、動くな!」
その声が響き渡った瞬間、店の空気は完全に凍り付いた。
なだれ込んできた制服警官たちが、あっけに取られる田中たちを、抵抗する間もなく次々と取り押さえていく。
「な、なんだよ!? なんで警察が!」
「監禁及び暴行の容疑だ。被害届も、証拠も、すべて揃っている」
警官の一人が、壁に巧妙に仕掛けられていた小型カメラと、テーブルの上に置かれた私のスマホを指さす。スマホの画面には、この数時間の会話が、録音アプリによって克明に記録されていた。
パニックに陥る男たちと、床に座り込んだまま、魂が抜けたように泣きじゃくるあやめ。
その地獄絵図の中心で、私は静かに立っていた。手にしたワイングラスを、ゆっくりと傾けながら。
一人の年配の刑事が、私の前に立つ。
「……君が、通報者の斎藤咲さんだな。見事な手際だった。ご協力、感謝する」
「いいえ」
私は首を横に振った。
刑事の目が、私をじっと見つめる。全てを見透かすような、厳しいが、どこか温かい目だった。
「君も、分かっているんだろう。やり方は褒められたものじゃない。一歩間違えれば、君自身が罪に問われていた」
「……はい」
「もう、こんなやり方はするな」
その言葉だけを残し、刑事は去っていく。
彼の言う通りだ。私は、法と不法の境界線の上で、危うい綱渡りをしていたに過ぎない。だが、後悔はなかった。やらなければ、きっと私は、一生あの灰色の絶望から抜け出せなかっただろうから。
警官に両脇を抱えられ、引きずられるように連行されていくあやめが、最後に足を止め、私を振り返った。
その瞳は、もはや涙に濡れていなかった。燃え盛る炎のような、純粋な憎しみが私を射抜く。最後のプライドを賭けて、私を睨みつけていた。
私はその視線を、真正面から受け止めた。
そして、無言のまま、彼女の足元の床に向かって、静かに唾を吐き捨てた。
ぺっ、と小さな音が響く。
それは、言葉よりも雄弁な、完全なる侮蔑と拒絶だった。
あやめの顔が、驚愕と屈辱に歪む。彼女の中で、何かが音を立てて砕け散ったのが分かった。警官に促され、彼女は力なく連れ去られていった。もう二度と、私を振り返ることはなかった。
誰もいなくなった店内で、私は手にしていたワイングラスを高く掲げた。
深紅の液体が、私自身の決意の色のように見えた。
あの日、私の世界は灰色になった。
だが、今は違う。
私は、自分の手で、この灰色に色を付けた。たとえそれが、復讐という名の、どす黒い赤だったとしても。
グラスの中身を、一気に飲み干す。
さようなら、弱かった私。
さようなら、灰色の金曜日。
喉を滑り落ちたワインは、ほんの少しだけ、鉄の味がした。
-了-
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