第3話(前に連れてきた子……?)
『灰色の金曜日』
第三話
絶望の底に突き落とされると、人間は何も感じなくなるらしい。
男たちの卑猥な冗談も、馴れ馴れしく注がれる酒も、まるで他人事のように感じられた。私は魂の抜け殻のように、ただそこに座っていた。抵抗する気力さえ、奪われていた。
(このまま、終わるんだ……)
諦めが心を支配しかけた、その時だった。
田中が、自慢げに他の男たちに語り始めた。
「いやー、やっぱあやめちゃんは話が早くていいよな。あの子に頼めば、大抵の子は三万で落とせるからな」
「マジっすか! コスパいいっすね!」
「だろ? 前に連れてきた子も、最初は泣いてたけど、最後は笑ってたぜ」
その言葉が、私の耳に突き刺さった。
(前に連れてきた子……?)
つまり、これは初めてじゃない。
私以外にも、同じようにあやめに売られ、この男たちの餌食にされた女の子がいる。
そして、これからも、また別の誰かが……。
その瞬間、私の心の中で、何かが音を立てて変わった。
自分一人が被害者であるうちは、ただの絶望だった。だが、この悪意が、私以外にも向けられ、これからも繰り返されるのだと知った時、それは燃え盛る怒りへと姿を変えた。
絶対に、許さない。
私を騙し、物のように売り払い、自分だけ安全な場所へ逃げたあやめを。
金で人を買い、尊厳を踏みにじり、それを娯楽として笑うこの男たちを。
この連鎖を、ここで断ち切らなければ。
恐怖は、消えていなかった。だが、その恐怖を、灼熱の怒りが上回った。
俯いていた顔を、ゆっくりと上げる。
そして、私は、今まで浮かべたことのない笑みを、唇の端に浮かべた。
「……すみません。ちょっと、驚いちゃって」
か細い、怯えた声。
それは、演技だった。
地味で引っ込み思案な、いつもの「私」を演じる。この獣たちが油断する、最高の仮面だ。
「やっと飲む気になったか?」
「……はい。いただきます」
私は震える手で、わざとそう見せながら、ビールグラスを手に取った。
そして、男たちに媚びるように笑いかけ、彼らの自慢話に熱心に耳を傾けるフリをした。警戒心が解けていくのが、手に取るように分かる。
私は、会話の合間を縫って、さりげなくスマホを手に取った。
テーブルの下で、誰にも気づかれないように、メッセージアプリを開く。
宛先は、田中。
『さっきはごめんなさい。実は、もっと楽しい場所に移動しませんか? 私、すごくいいお店を知ってるんです』
送信。
すぐに、テーブルの向こうで田中のスマホが短く震えた。彼は怪訝な顔で画面を見ると、その表情がみるみるうちに欲望の色に変わっていく。
次に、別のチャット画面を開く。
『警察の方ですか? 友人に騙され、監禁されています。これから犯人たちを、私が指定する店に誘導します』
位置情報と、店の名前を添付して、送信。
これは、賭けだった。
だが、もう後戻りはできない。
私は顔を上げ、天使のような笑顔で田中を見つめた。
「駅前に、貸し切りにできる素敵なワインバルがあるんです。今から、行きませんか?」
私の提案に、男たちは下卑た笑みを浮かべて頷いた。
彼らは知らない。
自分たちが今まさに、地獄の舞台へと足を踏み入れようとしていることを。
そして、その舞台の主役が、この私だということを。
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