第2話「まいどあり!(笑)」



『灰色の金曜日』

第二話


「まいどあり!(笑)」


その一言で、私の脳は思考を停止した。

ガヤガヤとした個室の喧騒が、まるで厚いガラスを隔てた向こう側のように遠ざかっていく。目の前で繰り広げられる光景が、スローモーションのように見えた。

私を金で買い、値踏みするように笑う男たち。

金を手にし、当たり前のように彼らにお酌をする、親友だったはずの女。


「……ふざけないで」


自分でも驚くほど、冷たく低い声が出た。

怒りよりも先に、裏切られた絶望が、冷たい水のように足元から体を満たしていく。


「なにって、飲み会だよ?田中さんたちが、咲と飲みたいって言うからセッティングしてあげたの」

「……お金」

「ああ、これ?セッティング料。ただで飲むより、ちょっとお小遣いあったほうが嬉しいでしょ?咲の分もちゃんとあるからさ」


悪びれる様子は、ひとかけらもなかった。彼女の中では、これが「当たり前」なのだ。

友情も、信頼も、すべて彼女にとっては金に換わる「何か」でしかなかった。


「さあさあ咲ちゃん、何飲む?遠慮しないで頼みなよ、俺のおごりだからさ!」


男が馴れ馴れしく私の肩に手を置こうとする。


パシンッ!


反射的にその手を思いきり払い除け、私は勢いよく立ち上がった。ガタン、とテーブルが揺れ、飲みかけのビールグラスが床に落ちて割れた。


「……最低」


声にならない声で呟き、私は個室を飛び出そうとした。

だが、その背中に、先ほどとは比べ物にならないほど強い力が加わった。


「まあ、座れよ!」


田中と呼ばれた男だった。彼は私の両肩を鷲掴みにすると、まるで荷物でも扱うかのように、私を強引に席へと押し戻した。


ドスン、と乱暴に座らされる。その衝撃で、息が詰まった。


「ちょっと、何するんですか!」

「何するって?飲み会の続きだよ。金、払ったんだよこっちは。タダで帰すわけねえだろ」


彼の目はもう笑っていなかった。冷たく、暴力的な光が宿っている。

助けを求めるようにあやめを見ると、彼女は気まずそうに目を逸らした。そして、おろおろと田中の顔色を窺っている。


「た、田中さん、そんな……咲も驚いちゃってるんで……」

「あ? テメエは黙ってろっつったろ」


田中の一睨みで、あやめは口をつぐんだ。

そして、次の瞬間。信じられないことに、彼女は自分のバッグをぎゅっと握りしめると、深々と頭を下げた。


「じゃ、わたしは、これで……」

「おう!またな!また頼むよ(笑)」


軽薄な笑い声に見送られ、あやめは逃げるように個室の障子戸を開け、廊下へと消えていった。

ピシャリ、と閉められた戸が、私と彼女の世界を完全に隔てた。


個室には、私一人と、三人の男。

完全に、逃げ場はなかった。

恐怖で固まる私を見て、田中は満足そうに口の端を吊り上げた。


「さて、と。邪魔者もいなくなったことだし。ゆっくり楽しもうぜ、咲ちゃん」


絶望。

その二文字が、私の全てを支配した。

この時、私はまだ知らなかった。この地獄の底で、私の心に、復讐という名の、黒い炎が灯ることになるのを。


そして、その炎が、数時間後のワインバルで、あやめと田中たちを焼き尽くすことになるということを。


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