『灰色の金曜日』

志乃原七海

第1話さぁ?



『灰色の金曜日』

第一話


「さあ?」


たった一言。私の唇からこぼれ落ちたその音は、目の前で泣き叫ぶ女の希望を、粉々に打ち砕くためのハンマーだった。

床に引き倒され、男に腕を掴まれた彼女――あやめが、懇願するように叫ぶ。


「助けて、咲! お願い……友達でしょ、私たち!」


友達。

なんて滑稽な響きだろう。数時間前まで、私もそう信じていたのに。

私はテーブルの上のワイングラスに指を滑らせながら、この地獄絵図を支配する愉悦に静かに身を委ねていた。全ては、私の計画通り。


――ことの始まりは、ほんの数時間前。金曜の午後五時。デスクの向こうから、太陽みたいな笑顔で彼女が私に声をかけてきた、あの瞬間だった。


「ねえ、咲!今日飲み会しよ?女子会!」


月曜から駆け抜けた金曜の午後。同期のあやめが身を乗り出すようにして言った。スマホをいじっていた私は顔を上げる。


「うん、いいけど」

「だよね!やっぱ金曜の夜は飲みたいよね!」


花が咲くような笑顔。あやめはいつもそうだ。太陽みたいに明るくて、少し強引なくらい行動力がある。彼女のその輝きに、地味で引っ込み思案な私はいつも助けられてきた。だから、この時の私も、何の疑いも持たなかったのだ。


「駅前の、新しい個室居酒屋予約しといたから!仕事終わったら行こ!」


カラン、とドアベルが鳴る。予約名を告げると、店員は私たちを薄暗い廊下の奥へと案内した。通されたのは四人掛けの個室。掘りごたつ式の落ち着いた空間だった。


「へえ、いい感じのお店だね」

「でしょ?とりあえず生、頼んじゃお!」


先に二人で乾杯し、喉を潤す。運ばれてきたお通しをつまみながら、私はふと気になったことを口にした。


「あれ、他の子は?」

「ああ、ごめんごめん。二人とも急用でちょっと遅れるみたい。先に始めててって!」


そうなんだ。なら仕方ないか。あやめはスマホの画面を私に見せながら、「この枝豆の唐揚げ、絶対美味しいって!」と無邪気にはしゃいでいる。疑う余地なんて、どこにもなかった。


それから三十分ほど経っただろうか。会社の愚痴や週末の予定を話していると、個室の障子戸がスッと開いた。


「お、来た来た!」


あやめの声に、私も「お疲れー」と戸口に顔を向ける。

そこに立っていたのは、見知らぬ男性が三人。全員、三十代後半だろうか。安っぽい香水の匂いと、すでにどこかで飲んできたらしい酒の匂いが混じって、個室の生温かい空気をかき混ぜた。


目を疑う。

え?誰?

私の思考が停止しているのをよそに、男たちはぞろぞろと部屋に入ってくる。


「いやー、今日は楽しみにしてたんだよな!」

「お待たせしちゃってすみません、田中さん」


あやめが、当たり前のように中心にいる男性に声をかける。


「おう、いいってことよ。……で、こっちが噂の?」


田中と呼ばれた男の、品定めするような視線が私に突き刺さる。隣に座った男が、下卑た笑いを浮かべて私の顔を覗き込んだ。


「へえ、咲ちゃんと飲めるんだってな(笑)」


え?

なに……?どういう、こと?


混乱する私の目の前で、信じられない光景が繰り広げられた。

田中と呼ばれた男が、分厚い封筒をあやめに差し出す。あやめはそれを慣れた手つきで受け取ると、中身をちらりと確認し、にこりと笑った。


札束だった。


パサリ、と乾いた音を立てて、あやめはそれを自分のバッグにしまう。そして、男たちに向かって、まるで店の女主人のように言ったのだ。


「まいどあり!(笑)」


は?


その一言が、私の頭を鈍器で殴りつけた。

まいどあり?今、そう言った?まるで、商品を売ったみたいに。私を、売ったみたいに。


血の気が、すうっと引いていく。指先が氷のように冷たくなった。

目の前で楽しそうにビールを注文しているあやめと、私を肴のように眺める男たち。ガヤガヤとした喧騒が、急に遠くなる。


この時、私の世界は、音を立てて崩れ落ちたのだ。

そして、この数時間後。

私は、あのワイングラスを手にすることになる。


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