round8.原点回顧
夏の日の夕暮れ時、まだ日中の熱が残る駅の改札を出た繁華街へと続く通り。
退社した会社員達が冷えたビールを求めてぞろぞろと居酒屋へと歩みを進める。
待ち合わせた詩織と海人は、少しだけ久しぶりの再会で、会話もどこか他人行儀に聞こえる。
「お待たせしました」
「いや、今来たとこ」
定型文のやりとりを交わしながら歩き出す。
行き先はまだ決めていなかったが、
「軽く晩御飯でも」という提案に、詩織はうなずいていた。
通りをしばらく歩くと、大きなガラス張りの本屋が現れる。数フロアにわたってさまざまなジャンルが並ぶ、いわゆる大型書店。
「……ちょっと、寄っていってもいいかな?」
詩織が立ち止まり、店先を見上げる。
「もちろん。詩織さんって、やっぱり本屋が好きなんだね」
「嫌いだったら小説なんて書けないでしょ」
海人は、苦笑いを浮かべる。
「それが普通なんだろうね。紙の本より、スマホで読む方が楽って思っちゃう俺の方が、ちょっとズレてるのかも」
エスカレーターに乗って、静かに上のフロアへと上がる。
ジャンルごとに分かれたコーナーに、さまざまな帯のついた平積みが視界を埋める。
「わたし、文芸コーナー見てくるね。
……海人さんは?」
一瞬、迷ったような顔を見せたあとで、海人はゆっくりと口を開いた。
「俺は……こっちの異世界コーナーを眺めてようかな」
その瞬間、ふたりの距離がすっと分かれる。
きっと、お互いの深いところまでは分かり合えない。けれど少なくとも──今は同じ地図の上に立っている。
海人は足を向けた異世界ファンタジーの棚の前で、指でなぞるように、平積みされた書籍の表紙に触れた。
カラフルなカバーイラストに、強い言葉の並んだタイトル。どれも異世界系特有の、定番のフォーマットを踏襲するようでいて、それぞれが違いを主張するように個性を放っている。
ぼんやりと、数冊手に取っては戻すたび、自分の胸の奥に抱えた重みが、少しずつ輪郭を帯びてきた。
──俺の書いてるものって、本当にこの棚に並ぶ価値、あるんだろうか。
海人が書き始めた理由。それは、ある意味で自分の命綱のようなものだった。
あの頃、何もかもうまくいかず、眠れなくて、会社に行くのが怖くて。
毎日正午に更新される“あの作品”だけが、自分を日常に繋ぎとめてくれていた。
『イラつく上司はジェノサイド〜転生して士官した先はパワハラまみれの魔王軍でした。出世のためにゴミを粛正しまくったら魔族に感謝された件〜』
最初はタイトルに笑って読み始めた。でも、ページをめくるごとに、その世界に引き込まれた。
破天荒で痛快な展開の中に、妙なリアリティと緻密さがあった。
登場人物たちは、どこか自分と同じ痛みを抱えていて、それでも歩みを止めない。
何より、台詞が″生きて″いた
──こんな作品を書けたら、誰かの支えになれるかもしれない。
そう思って、書き始めた。
でも今は──違う。
文字数をこなし、PVを気にし、読者の反応に揺れて。
いつしか、自分自身を鼓舞するように書いていたはずの物語が、数字を追いかける作業になっていた。
ふと、棚の中ほどに並んでいた一冊の文庫本が目に入る。
それは、例の作品だった。書籍化され、商業用に改題されていても、海人には一目で分かった。
背表紙にそっと手を添える。
──俺のは、これに比べて、何が足りないんだろう。
ふと、誰かが隣に並んだ気配を感じて、顔を上げると、詩織だった。手には数冊の文芸書。
「なにか気になるのあった?」
「……うん。あった、というか。思い出してた」
「……なにを?」
「俺が、なろう系を書いてる理由」
詩織は黙って、海人の表情を見つめた。
海人は小さく笑い、手に持っていた本を棚に戻す。
「やっぱり、俺にとっての憧れって、たぶんこの本だったんだなって」
その言葉の裏にあるものを、詩織はすぐには理解できなかった。
けれど、海人の声に宿るほんの少しの迷いと、誇りと、悔しさの混じった響きを、静かに受け止めていた。
「……じゃあ、そろそろ晩御飯、行きましょう」
「ああ、そうだね。お腹空いたし」
二人はまた、肩を並べて歩き出した。
同じ地図の上、少しだけ、前より近い位置を歩くように。
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