round9.休載阻止


 店の暖簾をくぐると、杉の木を思わせる淡い木の香りがふわりと鼻をくすぐった。


 小さな和食居酒屋。照明は抑えめで、間接光が木目のカウンターを優しく照らしている。テーブル席もあるが、詩織は迷いなくカウンター席を選んだ。


 横並びの席に腰を下ろし、手書きのメニューを手に取ると、旬の食材を活かした創作料理の名が並ぶ。

 裏面にはこだわりを感じる、聞き慣れない銘柄の日本酒と、種類は少ないが洗練された国産ワインのリスト。


「この“とうもろこしのすり流し”、美味しそうですね。出汁を使わずに、芯ごと煮出してるって……」


詩織は目を細めながら、ページの余白に書かれた説明を読み上げる。


「こういう、素材の良さを全て使い切る料理って、贅沢だと思いません?」


「たしかに。じゃあ、俺は……この“鯵のなめろう、梅肉載せ″ってやつ頼んでいい?」


「いいですね。日本酒いきます?」


「そうだね。こういう店でいきなりワイン頼むのも、なんだかね」


「別になんとも思われないわよ。そういうところは、ちゃんと気が回るのね」


 注文がひと段落し、グラスに注がれた冷酒がふたりの間に置かれる。ガラスの器に、ほのかな光が揺れた。


 最初の小鉢を口に運びながら、しばらくは料理の感想を交わすだけの、他愛ない会話。


 けれど、一口食べてから、ふと海人が箸を止めた。


「……詩織さんって、料理の楽しみ方も文章も、似てるよね」


詩織がきょとんとした表情で顔を向ける。


「言葉の選び方が、丁寧っていうか。ちゃんと料理人の意図まで汲み取ってるって感じ」


「……遠回しな表現や、言葉の裏を読むのが得意って言いたいのかしら?」


「そういうところなんだろうね」


 海人は苦笑しながら、酒をひと口あおる。


「……なんかさ、最近、何を書いたらいいのか分からなくなってて」


詩織は箸を止め、ちらりと海人を見た。


「書くことがない、ってこと?」


「うーん、伝えようとしていた核になるものが、もう自分の中にないっていうか……」


 そう言って海人は、手元のグラスを軽く揺らした。

 冷酒の波紋が、静かに広がっていく。


「あの頃、色々抱え込んでギリギリだった俺には、異世界ものがちょうど良かったんだ。頭空っぽでも読めて、期待を裏切らない世界」


 詩織は頷くでもなく、ただ黙って聞いている。


「それで、思ったんだよね。俺も……誰かの心の重しを取り除いてあげる物語を書きたいな、って」


「……ふうん」


「……ふうん?」


「立派な動機だと思うわ。でも、いまそれが書けなくなってるんでしょ?」


「まあ、うん」


「それってつまり──もう今のあなたを、救う必要がなくなったってことじゃない?」


海人は一瞬、目を見開いた。


「誰かを救う物語は、救われた側が書いたら……薄っぺらくなっちゃうかもね」


「……なんか、そんなふうに言われると、余計に迷子になりそうだな」


「だいたい、薄っぺらくてヘラヘラして、それでもどこか信念を感じる、ってのがあなたの良さなんじゃないの?」


詩織はそう言って、くすっと笑った。


海人も、のけぞるような仕草を見せて軽く笑う。


「うわ、何それ。俺のことそんな風に見てたの?もうちょっとこう…上辺の軽薄さとは裏腹に、創作への真摯な想いを内に秘めた気高き魂。とか言い方でなんとかしてよ」


「あら、お上手ね。″こっち″に来る?」


「それはちょっと……長くいたら、ブンゲイウィルスに染まりそうで怖いな」


海人は笑いながら、空になったグラスを見つめた。


その目に浮かぶ小さな迷いの影を、詩織はそっと見逃さなかった。


「……ねえ、海人さん」


「ん?」


「本当に、今のあなたは、もう何かに救われなくて大丈夫?」


その問いに、海人はしばし言葉を失った。


「……それは、なんというか……うーん。意外と……聞かれると困るかも」


詩織は首を傾げて、尋ねる。


「何よ。急に黙り込んで。まさか、やっぱり私に話すべきじゃなかった、とか思ってる?」


詩織の声は、やや冗談めかしていたが、その奥には真剣さが潜んでいた。


海人は目を泳がせ、言葉を探すように口を開きかけ──そして、そっと笑った。


「いや、その……なんというか……」


少しだけ間を置いて、海人は視線を詩織に向ける。


「……強いて言うなら、目の前の人に、救われてる気がするなって」


詩織は、ただ、静かに見つめ返した。


「ふうん……そういうの酔って言うと、明日になって後悔するわよ?」


「かもね。でも俺って、黒歴史を語った自分も愛せる男じゃん?」


詩織は呆れたように、海人を横目で見る。


「なんでそこで自分を讃えるのよ……。推敲してきなさい。やり直し」


「えー。AIなら″すごく良いですね!″って褒めてくれるのに……」


「あなたは甘やかされすぎなのよ。お父様とお母様じゃ飽きたらず、AIにまで甘えるつもり?」


詩織は小さくため息をつきながら、僅かに残っていた日本酒を飲み干した。


「……まあいいわ。お酒終わっちゃったわね。すみません、追加で──」


 そう言って店主に視線を向ける。


「“汲み上げ湯葉の冷菜”って、まだあります?」


「ええ、ございますよ。今日のは柚子のジュレを添えてます」


「湯葉に柚子かあ。美味しそう。是非そちらをお願いします」


 詩織はふと、ワインリストに目を落とした。


「さっきは日本酒だったけど……この湯葉料理なら、やっぱり甲州よね。軽やかで、クリアな酸味があるのがいい」


「中欧葡萄酒の”クレイツ甲州″とか?」


「いいわね。グラスワインで二杯、お願いします」


店主が奥へ下がったのを見届けると、詩織はワインリストを閉じ、ふと遠くを見るような目をした。


「ねえ、海人さん」


「ん?」


「あなたの作品、全部読んだわけじゃないけど、少しずつは目を通してるの」


「……マジで? うわ、恥ずかし」


「大丈夫。ちゃんと読み飛ばしてるところもあるから」


「それはそれでつらい」


 海人が肩を落とすと、詩織はくすっと笑った。


「あなたの書く“ざまぁ”って、なんだか詰めが甘いのよね」


「そっか……どのへんが?」


「例えばさ。徹底的にやり返す場面でも、加害者側に、必ずと言っていいほど逃げ場がある。後悔させる余地とか、許されないまでも、どこかで心を入れ替えて欲しいと願う気配を漂わせてしまっているの」


「……うん、かもね。たしかに、徹底的に潰すみたいなのは、あんまり好きじゃないかも」


「それって爽快感が求められる、ざまぁ物としては致命的だけど──」


 詩織はそこで言葉を切り、グラスの縁を指先でなぞった。


「でも私は、好きよ。あなたの描く世界」


 海人が言葉を飲み込んだのを見て、詩織は続けた。


「──ルノワールが言ったのよ。“この世には醜いものが既にたくさんある。私は美しいものだけを生み出したい”って」


 淡々とした語り口のまま、少しだけ目元が和らいだ。


「世界を美しく描くって、醜さから目を背けることじゃない。傷ついた人が、ちゃんと前を向けるようになるまで寄り添うこと。その優しさが、あなたの小説にはある」



詩織は、言いかけた言葉をそっと飲み込んで、少しだけ笑った。


「だから私は、あなたのことが嫌いになれないのかもね」

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