第1話:ひるあんどん
和泉雷志は実にだらしのない男である。
周りがこう揶揄するのは決して誇張や虚偽によるものではない。
事実、彼の一日は昼過ぎから始まるのだ。それまでの間、ずっと惰眠を貪っている。
人よりもずっと遅くに起き、かといってそこから何をするわけでもなし。
家の中でひたすらゴロゴロとしているか、たまに外で見かけても雷志は職に就いていない。
あくせくと周囲が働く中でのんびりとすごす。
正しく、典型的な昼行燈だった。
当の本人である雷志は、そのことについて一切気にしていない。
彼にとって人は人であり、決して誰かのために生きているわけではないのだから。
自分が幸せであれば、それでいい。雷志のモットーである。
空がまだ東雲色の時。町はおろか人々の意識は未だ心地良い微睡の中にあった。
人の気配もまばらで、だからこそたまたま起きていた初老の男性は目をカッと見開いた。
「ま、まさかこれはなにか天変地異の前触れか!?」
視線のすぐ先、正に昼行燈と揶揄された男――雷志の姿があった。
昼過ぎまで眠っているはずの男が何故か朝早くに覚醒している。
初老にとって数年間、一度として目撃してこなかった光景だった。驚くなという方がいささか無理である。
「いや、大袈裟すぎるだろ」
雷志は明らかに呆れた様子だった。
「ならばどうしてこんな朝早くに起きているのだ?」
初老の男の質問は、雷志をよく知るからこそ生じる至極真っ当なものである。
「別に、なんか昨日の晩妙に寝付けなくってな。そんでなんとか寝れたと思ったら、気が付いたらこんな時間に目が覚めてしまったってわけだ。特に深い意味はない」
「あ、あの超寝坊助が寝付けなかった、だと……?」
「いやだから、その反応は大袈裟すぎるんだよ」
とことん驚愕する初老の男に、雷志はほとほと呆れた様子で深い溜息を吐いた。
たまたま起きてしまった。それだけにすぎないのだから、それ以上の説明のしようがない。
だが、雷志はこの時不思議にも思った。
――いつもならグッと寝ているはずなのに、どうして今日は……。
――これじゃあ本当に、なにかが起きる前触れみたいじゃないか。
――縁起でもない……。
雷志はすこぶる本気でそう思った。
「それで、お前さんこんなに朝早くに起きてどこへいこうとしていたんだ?」
「別に、二度寝できそうな感じでもなかったからその辺を散歩しようかなって」
「まぁ健康的なのはいいが……お前さんもいい加減、なにか職に就いたらどうだ?」
「余計なお世話だよ」
雷志はむっとした顔を返した。
「だがなぁ、お前さんの歳で未だに無職というのはいかがなものかとは思うぞ? せっかく剣の腕が立つんだから、それを生かさないほうがもったいないだろうて」
「いいんだよ、俺は。それにこう見えてちゃんとそれなりの収入は得ているからな」
「まさか、泥棒か?」
初老の男がジッと向ける視線はひどくいぶかし気である。
「そんなわけがないだろうが!」
まったくもってとんでもない言いがかりである。
自堕落な生活をしていることを知っていながらの暴言は、さしもの雷志も怒りを露わにした。
とはいえ、生活そのものについてはまったく誇れるものではないが。
「まぁ、とにかくいい加減職を探せよ」
「余計なお世話だよ!」
最後までなにかと世話を焼こうとする初老の男に、雷志はそそくさと逃げるようにその場を後にした。
「――、これからどうするかねぇ」
言うまでもなく、町の覚醒にはまだ少し時間がかかる。
かといって、それまでの間散歩ですごすというのは無理に近しい。
散歩だけでは退屈はどうにも紛らわせそうにない。
しばし悩んだ末、雷志は町の外へと赴いた。
そびえ立つ高い城壁から一歩出れば、広大な平原が広がっている。
しばらく進むと鬱蒼とした森があった。
町のような喧騒はなく、ここには穏やかな静けさがそっと流れている。
木々の間をするりと抜ける朝風は心地良く、さらさらと流れるせせらぎの音色は心を癒した。
「ここは、相変わらず落ち着くなぁ」
雷志は元々、町の人間ではない。
誰しもが田舎と口をそろえるような小さな農村だった。
確かに都会と比較すればなにもない。だが、自然豊かな土地ではある。
採れる農作物は皆味がよく、わざわざ遠方からはるばる買いにくる客も少なくはない。
――やっぱり、自然があるっていうのは大事なことだな。
雷志はそんなことをふと思った。
「ん?」
森の奥には大滝がある。
天高くからごうごうと流れる膨大な水量は圧巻の一言に尽きよう。
その滝の前に誰かがいる。若々しい娘だった。
あどけなさがまだ残ってはいるものの、色白で端正な顔立ちは誰しもが美しいと答えよう。
身なりも、高級感を漂わせている。さらりとなびく色鮮やかな濡羽色の長髪がよく似合う。
――見かけない顔だな。
――それに身なりも随分と立派だ……どこかの令嬢か?
――まぁ、俺には関係のないことだからどうでもいいが。
雷志は踵を返した。
「あの、そこにどなたかいらっしゃるのでしょうか?」
「……ッ」
雷志は思わず言葉を失った。
――なんて美しい声をしているんだ……。
――こんなに美しい声は聞いたことがないぞ……!
玲瓏――声を褒める時によく用いられる。
玉を転がすような声とは正しく、娘のような声を意味する。
しかし、娘はずいぶんとおかしなことを尋ねる。雷志ははて、と小首をひねった。
娘との距離はそう離れてはいない。互いに十分視認できる距離でいながら、何故そのような質問をしたのか。
胸中に生じた疑問は、すぐに解決することとなる。
――もしかして、目が見えないのか……。
少女の目は終始、固く閉ざされたままだった。
よくよく見やれば彼女の手には一条の錫杖がしかと握られている。
どうやら盲目のようだ。雷志はそう察した。
「あ~……あぁ、まぁ。一応いるぞ」
「あぁ、よかった! 実は道に迷ってしまい困っていたのです」
「そう、だろうな。あんた、もしかして目が……?」
「はい。この目は生まれつき光を目にしたことがございません」
「そう、か。それはなんというか、苦労したな」
「そうでもありませんよ。慣れてしまえばどうということはありませんので」
少女がにこりと微笑んだ。
太陽のように明るくて優しい、慈愛に満ちた笑みに雷志は思わずどきりとした。
「と、ところでアンタはどうしてここに?」
気恥ずかしさを紛らわすように雷志は話題を切り替えた。
「はい。実は、余は
「なるほどな。
町の外には危険で満ちている。
誰しもが知っている常識で、並大抵の者ならばまず単身で出ようとはしない。
腕利きの護衛を雇うのが常套手段である。
少女は身なりがいい、ならば護衛を雇うぐらいの余裕ならば十分にあろう。
にも関わらず、周囲にそれらしき者の姿はどこにもなかった。
「ここまで一人できたのか?」
尋ねた雷志の表情はわずかにだか驚愕を示している。
「はい。基本余は一人で行動することが多いので」
少女はあっけらかんと答えた。
「おいおい、よくこれまで無事だったな……」
「ふふっ、こう見えて余は幸運に恵まれておりますので。あなた様とこうして出会えたのだって、その幸運があってこそなのですよ?」
「そ、そうなのか……」
自信たっぷりに言う少女に、雷志は小さく頷くしかできなかった。
「自己紹介が遅れました。余は、
椿姫と自らを名乗った少女は、静かにお辞儀をする姿さえも絵になる。
「俺は雷志。
「はい、よろしくお願いしますねライシさん――では」
そう言って椿姫がすっと右手を差し伸べてきた。
「えっと……」
「あ、ごめんなさい。その、せっかくですから手を繋いでいただければと……」
「え?」
雷志は素っ頓狂な声をもらした。
「あの、やはりご迷惑だったでしょうか……?」
「い、いや迷惑とかは思ってないんだけどな? その……」
「じゃあ、お願いします。やはり杖よりも誰かの手を握ってもらうほうが余も安心できますので」
さっと手を握った椿姫が口元を優しく緩めた。
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