第15話

最初のうちは、まだ「わたし」があった。


名前を呼ばれても、返事はしなかった。

それでもフードの女は、気にする様子もなかった。


「違うよ、それじゃない。あなたはまだ先生じゃないもん」

そう言って、わたしの顔を優しくなでてくる。

でもその言葉の奥にあるのは、やさしさなんかじゃなかった。


何度も、何度も、呼びかけられた。

でも、わたしの名前ではなかった。

フードの女は先生という言葉を、まるで祈りのように、わたしにすり込んできた。


手を握られ、服を選ばれ、体を洗われ──

言葉よりも先に、行動で形を決められていく。


「おなかすいてない? ……わかってないだけだよ。先生はね、ちゃんと食べなきゃだめなの」

「大丈夫、わたしが教えてあげる。ほら、口あけて」

「トイレ? うん、だいじょうぶ、気にしないで。失敗しても、ちゃんと拭いてあげるから」


──反抗はできなかった。

できないように、なっていた。

体はまだ動くのに、意志が外へ出てこなかった。


食事も、排泄も、眠ることも、フードの女の手のひらの中。

わたしが何かを望む前に、すべてが用意されていた。

そしてフードの女は、まるでいい子を育てるように、わたしにふれてきた。


「ねぇ、ちがうの。あなたは先生じゃない」

「だから、言うとおりにして。ちゃんと、わたしの先生になって」

「わたしは、あなたが必要なの。だから、壊さないで……お願い」


その手に触れられるたびに、世界がかすかに戻る。

けれど、わたしはわたしのままではいられなかった。


毎日、毎日、何かが削れていった。

どこかで何かを落としていっている気がした。

でもそれを拾い上げる指先が、もうどこにもなかった。


──そして、ある夜。


フードの女は小さなケースを取り出した。

そこには、もうひとつ、あの白い錠剤が残っていた。


「もうすこしだと思うんだ……ねぇ、これ飲めば、あなたの中、もっとちゃんと先生になると思うの」

「ほら、ね? 怖くないから。いままでより、ずっと楽になるよ」


わたしは首を横に振った。

それでも、もう力はなかった。

フードの女の手が頬を押さえたとき、わたしの口は自然に開いてしまった。


細い指なのに、どうしてそんなに力があるのか。

それは人の手じゃなかった。

静かに、でも絶対的にわたしを閉じ込める力だった。


──そして、また、世界が遠ざかった。


あの薬は、最初の時よりも、ずっと強かった。


色も、音も、重さも、熱さも──すべてが遠ざかっていった。

思考も感情も溶けて、なにか別のものに書き換えられていくみたいだった。


自分が誰だったかも、なぜここにいるのかも、もうどうでもよかった。

ただ、そこにフードの女がいて、語りかけてくる声だけがあった。


「ね、大丈夫。だんだんちゃんと感じられるようになるから……」

「ほら、あなたの手は、先生じゃないけど──なれるはずなの」

「だから、もうちょっとだけ……頑張ってみようね?」


わたしはうなずいた。うなずいてしまった。

そうすること以外、思いつかなかった。


でも──それは、ほんのわずかな異物のように胸に残った。


なにかが、おかしい。

なにかが、間違ってる。


──でも、なにが?


世界が揺れていた。

ぐらぐらと、遠くで地鳴りのように鳴っている気がした。


そのときだった。


視界の隅に、ナタがあった。

古びて、重そうで、鈍く光るそれが、机に無造作に置かれていた。


意識していないのに、身体が勝手に動いた。


腕が伸びていた。

感覚はない。

手に何かを持ったという重みも、皮膚に触れる冷たさもなかった。


でも、持ったという事実だけは、脳に強く響いてきた。


──これだけが、ここにある。

──これだけが、確かにわたしに属している。


わたしは立ち上がっていた。

ぐらつきながらも、ナタを抱え、フードの女に向かっていた。


「……だめだよ、それは」

「危ないことしないで。あなたは、わたしの先生になるんだから」


その声が遠くで響く。

フードの女が、一歩、わたしに近づいてくる。


わたしの唇が震えた。


「……ちがう……わたしは……せんせい、なんかじゃない……」


自分の声なのに、ひどく遠く感じた。

でも、それは確かにわたしの言葉だった。


──壊されていく。

でも、壊されたまま終わらせたくなかった。


わたしは、ナタを振り上げた。


重さも、硬さも、痛みも、なかった。

ただ、動作だけがあった。


腕を振る。

空気が動く。

なにかが砕ける音がする。


それだけが、今のわたしと、この世界を結びつけていた。



「……っあ……」


鈍い音が響いた。

けれど、なにも感じなかった。

手の震えも、反動も、痛みも、重ささえも──


ただ、動作の結果だけが、世界に刻まれていった。


フードの女が一歩、下がる。

肩に切り傷ができて、服がじわりと赤く染まっていく。

けれど彼女は、怒りも、恐怖も浮かべなかった。


ただ、寂しそうに笑った。


「……ねえ、なんで……?」

「せっかく、ここまで作ってあげたのに……」


その声に、吐き気がした。

気持ち悪い。

どうして今まで、この声を受け入れていたのか。


もう、わたしは──終わらせたい。


「……ちがう……ちがう……!!」


わたしは、叫ぶようにナタを振るう。

視界がにじんだ。

フードの女が手を伸ばす。

触れられる前に、わたしはもう一度、ナタを振り抜いた。


彼女はようやく後退し、バランスを崩して倒れた。


その隙に、わたしは駆け出した。

感覚のない足でも、ただ反射だけで走った。

転びそうになっても構わなかった。

壁にぶつかっても、石につまづいても、立ち止まらなかった。


外は夜。

山の中の冷たい空気に包まれた小道を、わたしは裸足で駆け下りた。


どれくらい走ったのか、もうわからなかった。

でも、突然──見えた。


遠く、ガードレールの向こう。

車のライト。

人の声。


「──だれか……っ……!」


わたしは最後の力を振り絞って叫んだ。


その声は掠れていたけれど、誰かがこちらに気づいた。

懐中電灯が向けられ、複数の足音が近づいてくる。

「誰かいますか? 大丈夫ですか?!」


──助かった。

本当に、助かったんだ。

身体が崩れるように倒れこむ。

地面の感触はないけど、そこにあるとわかった。


誰かが毛布をかけてくれた。

誰かが無線で連絡していた。

誰かが、わたしの名を尋ねていた。

──でも、わからなかった。


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