第14話
最初のそれは、ほんの数時間も経たないうちに起きた。
何も感じなかった。だから、気づけなかった。
床に敷かれたマットにゆっくりと染みが広がっていくのを見て──ようやく、気づいた
「……やだ……」
小さく、けれど確かに、口から漏れた。
顔が熱くなった。喉が詰まった。
あり得ない。こんなこと、あり得ない。
わたしは、もう子どもじゃないのに……。
足元を見た瞬間、涙が堰を切ったようにあふれた。
「うそ……やだ、やだ……!」
どれだけ叫んでも、誰も来なかった。
しばらくしてようやくドアが開き、フードの女がわたしの姿を見て──ため息まじりに微笑んだ。
「……そっか。最初はそうなるよ。
ね、着替えよう。恥ずかしいことじゃないの。すぐ慣れるから、大丈夫」
そう思う余裕もなく、わたしは濡れた服の重みに耐えていた。
脚のあいだから、じっとりと服が変色していた。でも、不快感すら、なかった。
フードの女はしばらく黙ってわたしを見つめ、それから静かに、タオルを差し出して言った。
「……よし、きれいにしよう。服、脱げる? 自分で、できそう?」
わたしは何も言わず、タオルだけを受け取った。
少しでも、自分のままでいたかった。
この体が、まだ自分のものだと信じたかった。
おそるおそる、服に手をかける。
指先に力を込めても、その感覚はなかった。
濡れた下着を引き下ろした瞬間、喉の奥がきゅっと詰まった。
見られていることが、わかっていた。
恥ずかしいはずなのに、その恥ずかしさすらも、身体に触れてこなかった。
タオルを濡らして、太ももを拭う。腹を、腕を、胸を──
一つひとつ、確かめるように、慎重に。
ほんの少し、ほんのわずかでも。どこかに、感覚が残っているかもしれない。
……でも、そこには、何もなかった。
肌の温度も、布の濡れも、指先の重さも。
どこにも、わたしはいなかった。
まるで、空気を撫でているみたいだった。
それでもわたしは、最後まで拭き続けた。
泣きながら、意味のない動作を、止めることができなかった。
その夜、わたしはシーツの隅で、ひとりで泣いた。
声も出さずに、ただ、ひたすら泣いた。
自分の体が自分じゃないこと。
なにも感じないのに、すべては進んでいくこと。
痛みも、温度も、重さも──どこにもないこと。
それから、二日……三日……
わたしはほとんど何も食べられず、飲めず、口もきけなくなった。
全身が空っぽになっていくような感覚。
壊れていくのがわかった。
……でも、もう、止められなかった。
それでも──
その日、ふいに、フードの女が近づいてきて、
わたしの肩に手を置いた。
その瞬間だった。
ひゅっと、息が詰まった。
胸の奥が、きゅっと縮まるように苦しくなった。
その手が、あたたかかったわけじゃない。
でも──たしかに、何かが触れている感覚が、走った。
──わたしは、ここにいる。
ようやく、そう思えた。
世界が、少しだけ、戻ってきた気がした。
「……っ……」
わたしはその手に縋るように顔を向ける。
フードの女は、やさしく微笑んで、
まるで愛しいものに語りかけるように、こう言った。
「……感じたでしょ? ねぇ、うれしかった?」
彼女は、わたしの手をそっと撫でた。
その指が肌を這うたびに、わたしの中で色が戻ってくる。
さっきまで空っぽだった世界が、わずかに音を立てて揺れた。
わたしは、ただうなずくしかなかった。
「いいなぁ……ほんと、うらやましい……」
その声は、甘くて、熱っぽくて、どこか震えていた。
「それ、わたしには、もう、ないから」
ぽつりと、焦がれるように言うその目は、狂気と羨望に満ちていた。
「でもね、大丈夫。あなたの手──まだ先生じゃないけど、
きっと、なれるの。そうすれば……あなたが先生、わたしがあなた。ね?」
わたしは言葉を失った。
それが、何を意味しているのかなんて、わからなかった。
でも──その手の感触だけが、わたしと世界をつないでいた。
「だから、ちゃんと……先生に、なってね?」
その一言で、世界が反転したような気がした。
わたしは、ゆっくり──ゆっくりとうなずいてしまった。
理由も、意味も、わからないままに。
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