第12話
最初は──ただの視線だった。
電車の中、人混みに紛れて、ほんの少しの違和感。
誰かに見られているような気がして、振り返った。
でも、そこには誰もいなかった。
ただ、数歩後ろにフードをかぶった女が立っていた。
その顔は──影に隠れて、よく見えなかった。
電車を降り、乗り換え、また降りる。
帰り道なのに、なぜか足取りが重かった。
不安というより、胸の奥に広がるざわめき。
何かが、どこかで確実にズレている。
──気がつけば、薄暗い小屋の床に倒れていた。
頭が鈍く痛んだ。
視界は滲み、手足にまるで力が入らなかった。
体を起こそうとしても、関節は重く、思うように動かなかった。
目の前に、あのフードの女がしゃがんでいた。
フードの奥から見える口元が、にっこりと微笑んでいた。
「目、覚めたんだ。よかった……ね、大丈夫だよ。怖くないからね」
叫ぼうとしたが、喉はつかえて声にならなかった。
口は渇き、手は震えて、何がどうなっているのか分からなかった。
「ね、ちょっとだけお願い。これ……飲んでくれる?」
彼女の手には、小さな白い錠剤。
おそらくポケットから取り出したばかりのものだった。
「特別な薬なんだ。すぐに、楽になるから、大丈夫」
わたしは、わずかに首を振って拒んだ。
「そうすれば、あなたの手が、わたしの世界になるんだよ──」
いやだ、なにそれ──
逃げなきゃ。でも、動けない。
彼女は、やさしく──だけど、どうしようもなく強引に、錠剤を口元に押し当ててきた。
首を振った瞬間、彼女のもう片方の手が頬を押さえた。
細くて、白くて、骨ばったその手は──
信じられないほど強くて、まるで逃げ道を封じるようだった。
「大丈夫、大丈夫。ね、すごく……気持ちよくなるから……」
その声は遠くの底から響くようで、
耳鳴りと一緒に、わたしを現実から引き離していった。
口を閉じようとしても、指がぐっと押し入ってきた。
錠剤が舌に触れた瞬間、苦味が広がり、思わずむせた。
「っ……けほ……っ……!」
崩れそうな身体を必死に支えながら、床を這った。
逃げなきゃ。ここは、おかしい。
この女、おかしい。
絶対に──やばい。
「──あっ、だめ、動かないで……! ほら、落ち着いて、だいじょうぶだから……!」
わたしはそれでも、手探りでドアを探そうとした。
でも、頭がぐらぐらして、すぐに倒れ込んだ。
脚に力が入らなかった。
「ねぇ、やっぱり、ちょっと眠ってたほうがいいかもね……」
彼女の声が、やさしく笑っている。
震える身体で壁に背を預け、
浅い呼吸のまま、必死に目だけを見開いた。
世界がぐらつき、視界の端がじわじわと暗くなっていく。
「大丈夫。あたしがそばにいるから。ね、すぐにわかるようになるから──」
その手が、わたしの頬にふれた。
その瞬間、心の底が、ぞくりと冷えた。
──違う、これは優しさなんかじゃない。
口の中に残る薬の苦味とともに、
体の芯から体温が引きはがされていく感覚に襲われ、
わたしはただ、震えていた。
「たすけて……」
かすれた声は、自分の耳にすら届かなかった。
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