第3話

帰りの電車。

車内の揺れが、なぜか全体的にくぐもっているように感じた。

いつもなら気になってしまう他人の体温、つり革の揺れ、電車の振動──

すべてが、ひとつひとつ削り取られていくような、不思議な感覚。


「……あれ?」


吊り革を握ったはずの手が、つかんでいる実感を伴ってこない。

空いた座背のクッションに腰を沈めても、沈んだかどうかがよくわからない。

気づけば、電車は自宅の最寄り駅に着いていた。


家に帰る。

靴を脱ぐ。

玄関マットの感触はない。

蛇口をひねる。

手に水が触れているはずなのに、冷たさを知覚できない。

わたしはそっと、頬を撫でてみた。

──なにも、なかった。

布団に潜っても、柔らかさも、あたたかさも、すべてが消えていた。

まるで、世界が遠ざかっていくように。

重さも、皮膚も、何もかも──

不安が、喉の奥から込み上げてくる。

わたしはすぐにスマホを手に取って、先生にメッセージを送った。


「何も感じません。これ、変です。どうすれば……」


すぐに返事が届いた。


《周りのことは気にならないでしょ? ゆっくり休んで。》


……まるで、今のわたしの状態が見えていないかのような、的外れな一文だった。


「……違う、そうじゃなくて……」


もう一度送る。

既読はつかない。


何度送っても、既読はつかない。

急に胸がざわついた。

さっきの頬に触れられた手のぬくもり、手触りだけが、嘘みたいに現実感を持って蘇ってくる。

焦って服を脱いで、肌に何かを触れさせてみた。

毛布、タオル、シャワー、冷水──

でも、全部空っぽだった。

顔を叩いても、足を爪先でつねっても、温度も痛みもない。

世界が、ただの映像になっていく。

動きはできる。でも、それだけ。

重さのない身体。

感触のない現実。

わたしは、その夜、ひとりで、何度も泣いた。

涙の感触だけが、なぜか最後まで残っていた。

──でも、それさえ朝には消えていた。


次の日、制服を着て、ふらふらになりながら学校に行った。

先生との場所。空き教室で一日待った。

でも、先生は来なかった。


……それでも、時間は進んでいった。

お腹も空かないし、トイレに行きたい感覚もなかった。

けれど、翌朝、気がついた。

ベッドから起きようとしたら、立てなかった。

なんとか這い出すと、パジャマのズボンがべったりと汚れていた。

それがなにか、すぐには理解できなかった。

感じなかった。ただ、そうなっていた。


わたしはしばらく動けず、床に寝転んだまま天井を見つめていた。

やがて、体が冷えてきたような気がして──それから、ようやく、着替えを取りにいった。

台所まで這うようにして、冷蔵庫を開けた。

何が食べたいわけでもなかった。ただ、「なにかを口に入れるべき」だと思った。


牛乳のパックを手に取って、流しの前でそのまま少しだけ飲んだ。

味はしなかった。冷たさもなかった。でも、喉が動く感覚だけが、かすかにあった。

それからは、何も感じなくても、「やるべきこと」として定期的にトイレに行くようにした。

何かを食べることも。

それは、もう「生きている」というより、「動かすべき機械の管理」のようだった。


その次の日も、学校へ行った。

一昨日は先生は来なかったけど、それでも「もしかしたら」と思って待っていた。


4日目。

もう周りの視線なんて気にならなかった。

でも──やっぱり、先生は来なかった。

それで、わたしは確信した。

……あの人は、もう来ない。

その日から、わたしは学校へ行くのをやめた。

でも、制服を脱ごうとは思えなかった。

一度着たまま、それきりずっと変えなかった。

脱ぐ理由も、着替える意味も、もうわからなかった。


わたしは家を出て、ひたすら歩き続けた。

駅の周辺、裏通り、公園、ショッピングモール。

目に映る景色だけが、かろうじて世界だった。

疲れなかった。眠くも、空腹にもならなかった。


制服は次第に汚れて、裾はほつれ、靴下には穴があいた。

それでも、わたしは何も感じなかった。

だって、何も感じなかったから。

何度も顔を洗った。鏡を見つめた。でも、そこに映るのは「自分じゃないもの」だった。

髪はぼさぼさで、目の下にクマができて、唇は乾いて色を失っていた。

──でも、それでさえ、触れなければ痛くも痒くもなかった。


ただ。

あの人を、探していた。

わたしの、たったひとりの人。

ふれてくれた、たったひとつのぬくもり。

それだけが、今のわたしの生きている証だった。


誰にでも話しかけた。ぶつかった。抱きついた。

男の人が手をひろげてわたしを抱きとめても、何も感じなかった。

女の人に叩かれて倒れたことも何度もあったけれど──それでも、感じなかった。

そのうち、近所の人がヒソヒソと声を潜めるのが聞こえるようになった。


「……あれ、佐藤さんちの娘じゃない?」

「どうしたのあの子、服ボロボロ……」

「最近、学校も来てないみたいよ」


コンビニの店員には距離を置かれ、公園では子どもに避けられた。

図書館では、カウンターで話しかけようとしただけで警備員を呼ばれそうになった。

わたしは、ただ誰かにふれたかっただけなのに。

それだけなのに。

感覚がないということは、こんなにも自分がなくなることなんだ。

それでも──


その日も、諦めきれずに歩いていた。

駅前の裏路地、もう何度目かもわからない道。

……ボロボロの制服にスニーカーを引きずって、何も考えずに歩いていた。


──そのときだった。


雑居ビルの横をすれ違おうとしたとき、視界の端に、見覚えのある髪が揺れた。

わたしは、反射的に駆け寄っていた。


「……あの、待って……!」


振り向いたその人は──まぎれもなく、先生だった。


「あら、お久しぶり。元気だった?」

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