第2話

その日の私は、どうしても先生と長く話していたかった。だから。

そんな話題を選んでしまった。


「うまく寝られないの。……体が、痛いとかじゃなくて。なんか……ずっと、落ち着かない」


「うん、わかるよ。そういうとき、心がずっと走り続けてるの。止めたくても止まらないんだ」


わたしはうなずいた。

先生の声はやわらかくて、安心できる。

先生だけが、わたしをわたしとして扱ってくれる。


「どこにいても誰かに見られてるみたいで、気が休まらないの。誰もいないのに。帰りも。うちでも。」


「それは、疲れてる証拠だね。心がずっと緊張してるのかも。」


先生は何かメモを取ると、しばらく悩んでいるようだった。


「少し、休ませてあげようか」


先生は、鞄の中から小さな銀色のケースを取り出した。

中には、丸くて白い錠剤が三つだけ入っていた。


「……これ、飲んだら少しだけ楽になれるの。自分のことだけに集中できるように。ちょっと、余計なことが静かになるのよ」


わたしは黙って、それを見つめた。

先生はしばらく何かを考えるように目を伏せていた。

ケースのフタを指先でなぞりながら、そっと言った。


「でも、本当は、こんなの使わないのが正解なんだけど。」


先生は私のほうを見て。


「もし──みずほちゃんが、どうしてもそうしたいと思ったなら。あげる。」


わたしは、こくりと頷いた。


「……飲みます」


そのとき、先生の目元がふっと緩んだ。

先生は、小さな錠剤を一粒、自分の口にそっと含むと──

そのまま、わたしの顔に手を添え、ゆっくりと唇を重ねてきた。


「……っ」


驚いて目を見開いたまま、息を呑んだ。

わたしの唇が、先生のそれにふれ、閉じた歯の間からそっと舌が入り込んでくる。

その舌先に押されて、小さな薬が──わたしの口の中へと滑り込んだ。

息すら忘れそうになるほどの距離で、先生の体温と吐息を感じる。

わたしは、こくん、と喉を動かした。

唇が離れても、先生の手はまだわたしの頬にあった。

やわらかく、あたたかく、まるで包み込むように添えられていた。


「えっ……せ、先生……? どうして……」


わたしが戸惑いながら問いかけると、先生はほんの少し首をかしげて、やさしく言った。


「……あんまり可愛いから。もし嫌だったら……ごめんね」


問いへの答えになっていない、でも、その声はおだやかで、やわらかかった。

──ドキドキしていた。

心臓の音がうるさいくらいで、顔が熱かった。

正直、少しだけ嬉しかった。


「……もし、この効果が切れて、またそうしたいと思ったら、その時に飲めるように。追加で二錠だけ渡しておくわ」


先生はケースをそっとわたしの手に握らせた。


「まとめて飲んじゃダメよ」


その声はやさしく、でも妙に遠く感じられた。


「じゃあ、今日はこれで。夜までには効いてくると思うわ。無理しないでね」


先生は手を振って去っていった。


私はドキドキと高鳴る胸に手を当てて、姿が見えなくなるまで後姿を見送った。

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