第4話

その姿を見つけた瞬間、なにかが爆ぜた。


「……っ! 返して……!」


わたしは走り寄って、先生に叫んだ。


「返して! わたしの……わたしの、全部、返してよ!!」


通行人が振り返る。誰かがスマホを取り出した。


「やだ、なにあれ……」

「警察、呼んだほうがよくない?」


彼らの目線も、声も、どこか遠くの映像みたいだった。

わたしの髪は乱れていて、服もよれていた。

声は震えていて、目は涙でにじんでいた。


なのに、先生は──まるで何も聞こえなかったみたいに、やわらかく微笑んだ。


「……ごめんなさい。何か誤解があるみたいです。少し落ち着いた場所で、話してみますね」


先生は、ふと微笑んで──その右手を、わたしに伸ばした。


「ちがっ……誤解じゃない! 返して……返してよ!!」


その手が、わたしの腕にふれた──

その瞬間、視界がぐらりと傾いた。

皮膚がひらくような感覚。

そこから、あふれ返るように、世界が流れ込んできた。

熱。重み。ざらつき。温度。ぬくもり。震え。

忘れていたはずのすべてが、一気に戻ってくる。


「……っ、あ……っ……」


声にならないうめきが、喉の奥から漏れた。

息がうまく吸えない。

鼓動が早すぎて、脈が跳ねて、手足の感覚が爆発する。

ただ、腕にふれられただけ。

それだけなのに、全身の感覚が暴れ出して、心が追いつかない。

体の奥が焼けるように熱い。膝が崩れ落ちそうになる。


ふれられている──それだけで、世界が全部、変わってしまった。


怒りも、戸惑いも、過去も、これまでのすべても。

いまこの瞬間、どうでもよかった。


ふれる感覚がある──

それだけで、何もいらないと思った。


先生がやさしく腕を引くと、

わたしは抗うこともできず、そのまま従っていた。

思考は濁って、視界はゆらいで、口はもう、うめきひとつさえ満足に出せなかった。

わたしはただ、生まれたばかりの赤子みたいに、

ふれられるという、それだけのために──わたしは先生に連れていかれた。



先生のアトリエは、古びたビルの最上階だった。

芸術家の隠れ家のような場所。キャンバスと木材と白い布に囲まれて、どこか現実味のない空間。


わたしは、連れ込まれたその瞬間──久しぶりの『触れられている感覚』の歓びに溺れて、何も見えていなかった。

だけど、その魔法は──長くはもたなかった。


「壊れてなくて、よかった。ふふ……残す価値、あるかもね。」


その言葉が、どこか遠くから聞こえた気がした。


はっとして気づけば、いつの間にか服は脱がされ、レオタードみたいな服を着せられていた。

汚れていた手足もきれいに拭かれて。でもわたしは、それすら理解できていなかった。

ふれている──それしか、わたしにはなかった。

恐怖も疑問も、すべてが遠くに霞んでいった。


「……ちょ、先生、なにしてるの!? やめてっ……!」


わたしの声は、空気に溶けて消えた。


抵抗しようと必死で身体を捻った。けれど、片足を軽く押さえられたとき、

その手が肌にふれて──


わたしの世界は、また色を取り戻した。


恐怖も拒絶も、何もかもが、ぬくもりの前に溶けていった。

頭の中が、ふれられた感触だけでいっぱいになっていく。


「……こんなこと……なんで……」


その手が離れた。

次の瞬間、すべてが無に還った。


もう一度、触れてほしくて、手を伸ばしかけたところで、先生が静かに言った。


「……言うこと、聞いてくれるなら、完成するまで、ちゃんと触っててあげる。どうする?」


「え……」


わたしは、息を飲んだ。

それが、条件。それだけ。

頭ではわかってた。おかしい、間違ってるって。

でも、それよりも──ふれてくれる、それだけで、他に何もいらなかった。

わたしは──うなずいていた。


先生は私を寝かせると、わたしの体に合わせて、白いシートが敷かれていく。

作業中、先生は、約束どおりわたしの肌に、ずっと触れてくれていた。

背中に手を添えながら、脚に何かを塗っていく。

肘に指を置きながら、レオタードの上から腹部へと刷毛を動かす。

ほんの小さな接点。

でも、そのぬくもりがある限り──わたしは、消えずに済んでいる気がした。


やがて、全身が白く覆われていった。

肩も、腕も、太ももも、指の一本一本まで。

最後に、先生はわたしの額に手を置き、そっと言った。


「ほらできた。あとは固まるまで我慢して。ずっと触っててあげるから」


動かないのは全くつらくなかった。 私の体はここにないから。

先生の手が、たった一つの命綱だった。

わたしはそのぬくもりにすがるように、意識を集中させた。


──それがなければ、もう、自分の形すら思い出せなかった。


「……いい子ね。」


その声すら、もう、遠かった。

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