第2話 サンプルNo.47

 ―――南塔大学 講義室


「社会における犯罪率の増減は、必ずしも“倫理”の浸透度合いに比例するわけではない。」


 講義室には静かな空調音と、ノレッジ・デジール教授の落ち着いた声だけが響いていた。今日の講義は「都市犯罪心理学」。


「たとえば近年、我々の暮らす浦川市では軽微な犯罪の検挙数が上昇傾向にある。これを“治安の悪化”と捉えるか、“監視体制の強化”と捉えるか。……見解は分かれるところである。」


 教授のスーツは皺ひとつなく、話しぶりは一貫して論理的かつ穏やかだ。学生たちも真剣にノートを取っている。だがその中には、目に見えぬ違和感を覚える者もいた。


「市民感情としては“不安”が増している。だがこの“不安”というものも、構造的には極めて扱いやすい感情なのだ。」


 プロジェクターに切り替わる一枚のスライド。そこには、とある事件の概要が示されていた。


『サンプルNo.47:男性・20代・フリーター・居住歴8年』


 深夜帯の防犯カメラ映像が、次のスライドに切り替わる。


「ある個体が、強い経済的圧迫と社会的孤立の中で、どのような行動選択を取るか。これは非常に興味深いテーマであり……」


 教授はあくまで冷静に語る。だが前列の女子学生が眉をひそめた。


(あれ……この人、先週から大学来なくなった、宮島さんじゃ……?)


 だが彼女は、言葉には出さなかった。他の誰も、口にしようとはしなかった。


「さて、まとめよう。都市の犯罪率は“感情”と“観測制度”の関数である。つまり……」


 講義は特に質問が挙がることなく静かに終わる。誰もが、講義内容そのものには文句のつけようがないと感じていた。


 講義が終わり、学生たちが三々五々教室を後にする中。

 一人の男子学生が、意を決して教授に声をかけた。


「先生……今日の例の“サンプル”って、あれ⋯本当に仮定の話、なんですか?」


 教授は一瞬、笑みを浮かべた。目尻に皺が寄る。だがその目は、冷たい琥珀色をしていた。


「もちろん、すべてはケーススタディ。仮定による思考実験だよ。だが……学術上の仮定というのは、時に現実を写す鏡でもある。君は、どうだったかね?」


 男子学生は視線を逸らした。


「……いえ。すみません、ちょっと気になっただけです。」


 その答えに教授は微笑みながら返す。


「知的好奇心は素晴らしい。だが、深入りは毒にもなる。特にここ、浦川ではね……」


 教授の手が、彼の肩を軽く叩いた。

「では、また来週。」


 学生は小さく礼をして、その場を逃げるように去っていった。



 夜。人気のない研究棟の一室で、教授は静かにノートパソコンを開く。

 カタカタとパスコードを入力すると、映し出されたのは数件の“実験ログ”。


『No.47:反応時間、恐怖感情の発露まで32分』『末尾記録:心的分裂傾向/沈黙』


 映像には、廃ビルのような一室で虚ろな目をした青年が座り込んでいる。彼はもう、何も喋らない。


 教授はレポートを入力していく手を止め、ふと呟いた。

「……さて、気づいたNo.31は、少々リスクか。摘んでおくべきだな。」


 電話を取り上げ、短く何者かに指示を伝える。

「学生番号31、処理を。事故に見せかけて構わない。」


 通話を切り、ふぅ、と息を吐いたその時だった。


「……にゃあ」


 足元から黒猫が歩み寄り、膝へと飛び乗る。


「……君は実に無邪気だね」


 教授はゆっくりとその背を撫でる。

 まるで何事もなかったかのように、温かな仕草で。


「さて、次のサンプルは、どんな顔を見せてくれるか……」


 その呟きは、膝上の猫のゴロゴロという音に、かき消された。

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